【連載】データの隠ぺい、映像に魂を奪われた法廷の人々(梶山天)

第11回 解剖所見無視の暴走捜査

梶山天

栃木県日光市(旧今市市)の小学1年の吉田有希ちゃん(当時7歳)を2005年12月に殺害したとして、宇都宮地裁(松原里美裁判長)は、裁判員裁判で自白および取り調べの一部を録音・録画した影像を根拠として同県鹿沼市、無職の勝又拓哉被告(当時38)に有罪判決を下した。同裁判では、他にも異常事態だったことを如実に物語る風景があった。

殺人事件では、被害者の司法解剖が犯行の凶器や死因、さらには犯人像、裁判における犯罪有無の判断にも影響する初動捜査には絶対欠かせない重要な捜査の手順なのだ。この解剖が失敗したら、捜査にも大きく影響する。今市事件の捜査本部の嘱託を受け、女児の遺体の司法解剖を行った茨城県つくば市の筑波大学法医学教室の本田克也教授(当時)が証人として同裁判に出廷したときのことだ。

市事件死体遺棄現場である茨城県常陸大宮市三美の山林を視察する本田克也元教授。

 

解剖医が普通刑事裁判に出廷する時は、身内とも言える検察側の証人だ。ところが、この裁判では違った。弁護側証人として出廷していたのだ。前代未聞といわざるを得ない。しかも本田元教授は、解剖所見と被告の供述が合わないと勝又拓哉被告の犯行を否定した。法廷の中が一気にどよめいた。

約1万体の司法解剖をしてきたベテランの本田元教授は言う。「被告は犯人にはなり得ないと女児のご遺体が語っている。被告の供述とされているものは、解剖所見が示す事実に合致している事実がなく、含まれていない。被告の供述は被告が犯人であることと、全く矛盾する」

これまでの解剖経験では、「被告が全て本当のことを語るとは限らないが、その中身には真犯人として矛盾しない言葉が必ずあった。だが、今回はそれが何もない」と本田元教授とはっきりと口にした。

最大の根拠は、遺体の死後硬直が進んでいたことと、足の裏が土ひとつ付かずにきれいだったという茨城県警からの情報にある。

現場で殺害したという供述が正しいとすると、死後硬直は急斜面に従った形に固まっていなければならない。ところが実際には、車の後部座席に寝かせていたとすれば符合する形に固まっていた。また、足裏が汚れていないことは、現場に裸足で立たせたという供述と矛盾する。

自白調書では裸足の状態で殺害したとなっているが、被害者の足は血のほかにはきれいで供述のおかしさがここでも出ている。

 

くわえて、05年12月2日午前2時ごろ、山林に裸で立たせ、肩を片手でつかんで、胸部の狭い部分のみ、十数秒間というわずかな時間、ほぼ水平方向にナイフで連続して刺したという当初の「訴因」は、実際にやってみれば、明らかに不可能であるから、ただちに崩れると本田元教授は説明する。

ナイフを刺して、すぐに引き抜こうとしても、抵抗があるためかなりの時間がかかる。また、被害者を立たせたまま保持することは事実上不可能で、1、2回刺すと、崩れ落ちてしまう。「10回刺して失血死させた」とする訴因そのものが崩壊していることを、女児の身体は訴えていたのだ。

そもそも検察が明らかにした殺害目的は、わいせつ行為を行い、顔を見られたので発覚を恐れたというものだった。しかし、女児の身体所見には、わいせつ行為を示す痕跡は一切残されていなかった。下半身には、まったく傷がなかったのだ。普通、性的ないたずらがあれば、下半身に抑えた痕とか、手で触ったひっかき傷とか、極端の場合には唾液や精液などの体液の付着があるはずである。

元教授は関係する部位のDNA型鑑定も行ったが、被害者には何一つ出ず、傷も一切見られなかった。しかも心臓を10回も刺すという行為は、正常な人間の行為とは思えない。性的いたずら目的ではないのでは、と解剖時にすぐに感じたという。

もう一つ気になるのが、「致命傷である胸の刺創(しそう)に女児が怖がって逃げようとした動きが見られない」と本田元教授がつぶやいた言葉だ。意外と顔見知りの犯行なのではないかと、考えずにはいられない。それはさておき、検察が描いたシナリオは明らかに崩れた。にもかかわらず、一審の宇都宮地裁は、被告を有罪にした。なぜなのか?

本田元教授が弁護側証人として法廷に立ったのには、伏線があった。司法解剖が終わると、当然だが捜査側は死因や凶器など、犯人割り出しにつながる情報を得るために解剖所見をいち早く知りたがる。そのため解剖医は正式な解剖書を出す前に、ある程度のおおまかな結果をアバウトに捜査側に提供する。しかし、この事件では、05年12月の発生から14年6月3日に勝又被告が殺人容疑で逮捕されるまで、捜査側からの接触は一度もなかった。

初動捜査の犯人像を知るための基本的なデータを解剖した法医学者から詳しく説明も受けずに女児が殺されたというだけで性犯罪の果ての殺人と何の根拠もない思い込みで犯人を追うという前代未聞の捜査手法には開いた口がふさがらない。

元教授の解剖鑑定書には「外陰部には、損傷異常を認めず、姦淫等を示唆する所見はない」と性犯罪でないことをはっきりと明記していた。さらに顔面に無数にある傷について「刃器によるものとしてはやや不自然である」とも指摘もしていた。

筑波大の本田克也元教授が捜査本部に提出した今市事件被害者の解剖鑑定書。被害者に性犯罪の痕跡がないことと、のちに勝又拓哉受刑者が「秘密の暴露」をしていない、いわゆる犯人でない証拠である傷について触れている。

 

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梶山天 梶山天

独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。

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