世界を裏から見てみよう:真珠湾攻撃とは何だったのか

マッド・アマノ

 

マッカーサーと天皇のツーショット

今年の8月15日は日本敗戦から78回目。この日は「終戦記念日」と呼ばれているが、裕仁天皇が自ら敗戦の弁を語った「玉音放送」がラジオを通じて流された日で、正式な「終戦の日」は東京湾沖の戦艦ミズーリ号甲板で行なわれた日米終戦調印式の9月2日である。

米国を中心とする連合軍は、おそらく背後で玉音放送を許諾していたのだろう。いやいや、米国こそが日本政府に放送を指示したとも考えられる。もしマッカーサー元帥が日本人に向けて「お前たちは負けたのだ。大人しくわれわれの言う通りにせよ」などと言おうものなら、日本国民の反発を買うこと間違いなしだからだ。

終戦から間もなく東京・日比谷のGHQ本部を表敬訪問した裕仁天皇は、軍服姿のマッカーサーと並んでカメラに収まっている。長身のマッカーサーと並んだ小柄な体躯の天皇が、燕尾服姿でやや緊張気味の表情を浮かべて直立不動なのに対して、マッカーサーは両手を軽く腰に当て、やや右足に重心をかけて、いかにもリラックスした感じだ。

現在でもこの写真を知らない人はいないように、敗戦国の日本人は、嫌というほど勝利者の不遜なポーズを見せつけられることとなった。私は2人の背の高さを逆転させたパロディを作ってみた。天皇より背の低いマッカーサーが現実だとすれば、今ほど日本人は卑屈にならなかったかも。

真珠湾攻撃とは太平洋戦争の戦況を振り返った時、日米開戦の契機となった真珠湾攻撃が、「そもそもの過ち」とされることが多い。1941年12月8日、真珠湾攻撃で日本軍は、空母6隻を柱とする機動部隊がアメリカ太平洋艦隊を奇襲、2度の攻撃によって停泊中の戦艦8隻のうち3隻を沈没させ、残りも大破。しかし空母など本当の主力艦隊は、海軍の攻撃を事前にキャッチして遠く離れたところに避難していた。しかも、オアフ島の石油備蓄タンクへの攻撃はほとんどなされなかった。

それでも、真珠湾の米戦艦が炎上・破壊される写真は、大本営発表により新聞で大々的に報じられた。私はその時の新聞をいくつか保管している。東京の実家の改修工事の際に、8畳の和室の畳の下に、封筒に入れられていたのだった。

黄ばんだ新聞の一面には、軍服姿の東條英機首相が国会で米英に宣戦布告を行なった模様が写真入りで報じられている。中面を開くと米軍艦を攻撃する写真がデカデカと掲げられ、嫌でも目に入ってくる。当時の日本人は、新聞やラジオの大本営発表にさぞや興奮したことだろう。

山本五十六と大艦巨砲主義

連合艦隊司令長官の山本五十六は、日米戦争になった場合の見通しについて、当時の近衛文麿首相から意見を聞かれた際、「是非やれと言われれば半年や1年の間は暴れてご覧に入れるが、2年、3年となれば(勝利できるか)全く確信は持てない」と答えたという。

戦艦を優先的に考える「大艦巨砲主義」がはびこるなかで、山本は早くから航空機に注目し、海軍航空部隊の育成に関わっていた。大艦巨砲主義とは、戦艦大和がその代表格。大和が1945年4月7日、米艦載機による攻撃を受けて、鹿児島県の坊ノ岬沖であえなく撃沈されたのは周知の通り。直径46センチの巨大主砲は、戦闘機の魚雷攻撃には無用の長物だった。ただし、日本だけでなく各国海軍も、大砲弾を遠距離から発射する戦艦を作戦の中心としていた。

米英に宣戦布告して以降、陸軍のシンガポール陥落をはじめとした領土拡大の進撃とともに、海軍も連戦連勝ぶりを、当初は披露した。マレー沖海戦やバタビア沖海戦、スラバヤ沖海戦などが、帝国海軍の勝利として報じられ、日本国民を歓喜の渦に巻き込んでいる。

真珠湾攻撃の約1時間前に陸軍がマレー半島に奇襲上陸。半島を南下し、英国が支配していたシンガポールを攻撃した。英国軍が無条件降伏した後、陸軍による軍政が敷かれた。同時に空爆でフィリピンに駐留する米軍を攻撃し、マニラを占領。翌年3月には蘭印(オランダ領東インド)の最大拠点であったジャワ島のバンドンなどを攻略する。日本軍はボルネオ、スマトラ島に集中する石油基地を占領した。

マレー沖海戦とは12月10日に、マレー半島東方沖で日本海軍の陸上攻撃機とイギリス海軍の東洋艦隊の間で行なわれた戦闘のことだ。日本軍がイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを撃沈した。これは、航行中の戦艦を航空機だけで撃沈した世界初の事例だという。

プリンス・オブ・ウェールズは10月23日にスコットランドのスカパ・フローを出港し、南アフリカのケープタウン、セイロン島(スリランカ)を経て、12月2日にシンガポールのセレター軍港に到着していた。チャーチル英首相は回想録で、「これほどショックを受けたことはかつてない」といった旨を書き記している。

世界に名だたるイギリス艦隊のエース級戦艦が、軍艦ではなく航空機によって撃沈されたことは、アメリカにとっても東アジアの戦況逆転に精力を捧げる引き金となったとされる。こうした日本の緒戦の勝利こそ、すでに戦争の主役が大型戦艦から航空機へと移ったことを示していたが、その日本軍自身が大艦巨砲主義から脱せなかったのは、皮肉なことといえる。

転機となったのは、1942年6月のミッドウェー海戦。海軍は米国本土の中間点に位置するミッドウェー島の攻略と米国艦隊の撃滅を狙った。しかし、空母4隻と多数の熟練兵を失う。原因は、島の基地の爆撃を目的としたことだったとされる。爆撃用の弾を航空機に取り付けていたのだが、米軍の戦闘機の攻撃を受け、空母を魚雷攻撃するために爆弾を取り替える必要に迫られたのだ。慌てふためく海軍は空母甲板で取り替え作業を行なったが、破壊されて空母に延焼。魚雷を受けて撃沈されるに至った。

 

「全滅」ではなく「玉砕」

1943年2月、ガダルカナル島で連合軍に補給を断たれ撤退。2万人が命を落とし、約6割が餓死と病死だった。同年5月には、日本軍の占領下にあったアリューシャン列島西端のアッツ島を米軍が攻撃。日本軍は捕虜を除いて全滅した。11月にはギルバート諸島のマキン、タラワ両島で玉砕。翌1944年3月、ビルマ(現ミャンマー)からアラカン山系を越えてインドのインパールを目指すも英軍に破れた。退却路に連なった日本兵の遺体で「白骨街道」と呼ばれた。やはり、病気や飢餓が死因のほとんどを占めた。

南洋諸島に進出した日本軍は連合軍(米英豪蘭)の攻撃に全滅を余儀なくされたが、大本営は「全滅」ではなく「玉砕」という言葉にすり替えて国民に発表し続けた。戦況の悪化を認めることのないまま、すでに抜け出せない泥沼にはまっていた。

私の妻は1歳だった1944年、母親に抱かれ、徴兵によりニューギニアに派遣される父親と別れのひと時を過ごしている。九州大学の工学部航空科を卒業した父親は、熊本の航空関係の会社に勤め、その関係でニューギニアのウェワクで飛行場の建設に携わることになった。

オーストラリアの北にあるニューギニア島は、日本より大きな面積を持ち、戦闘が最も悲惨だったことで知られている。「ジャワは天国、ビルマは地獄、死んでも帰れぬニューギニア」とまで言われた。父親は熊本で生還を待つ妻と1人娘に宛てて、手紙やハガキをしたためた。1945年7月15日に戦死。〝終戦〟までちょうど1カ月だった。死因は敵軍との戦闘ではなく、飢餓と伝染病マラリアなどに襲われるなかで、米軍の爆撃により戦死したとの報告がある。遺骨は戻っていない。

未亡人となった母親は、戦後50年間、毎年、写経を続けて亡き夫を慰霊した。戦地からのハガキを読むと、成長する娘の写真を心待ちにしながら、同居の妻の両親の健康を慮る内容に胸を打たれる。

(月刊「紙の爆弾」2023年9月号より)

– – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – –

● ISF主催公開シンポジウム:差し迫る食料危機~日本の飢餓は回避できるのか?
● ISF主催トーク茶話会:藤田幸久さんを囲んでのトーク茶話会のご案内

※ISF会員登録およびご支援のお願いのチラシ作成しました。ダウンロードはこちらまで。
ISF会員登録のご案内

「独立言論フォーラム(ISF)ご支援のお願い」

 

マッド・アマノ マッド・アマノ

日本では数少ないパロディスト(風刺アーティスト)の一人。小泉政権の自民党(2005年参議院選)ポスターを茶化したことに対して安倍晋三幹事長(当時)から内容証明付きの「通告書」が送付され、恫喝を受けた。以後、安倍政権の言論弾圧は目に余るものがあることは周知の通り。風刺による権力批判の手を緩めずパロディの毒饅頭を作り続ける意志は固い。

ご支援ください。

ISFは市民による独立メディアです。広告に頼らずにすべて市民からの寄付金によって運営されています。皆さまからのご支援をよろしくお願いします!

Most Popular

Recommend

Recommend Movie

columnist

執筆者

一覧へ