【連載】トルコ航空機の日本人215人に思う。 生きて帰った命、国際貢献へ(沼田凖一)

第4回 日本人救出を外交の成果に変えた日本政府

沼田凖一

なぜ、日本が救援機を出さなかったのか。日本政府は日本人救出について国会でどのような説明をしているのか。ふっと、心に灯った思いが日増しに膨れ上がっていきました。気づいた時には、国会図書館に足を運んでいたのです。

1985年4月3日の「参議院会議録情報第102回国会:外務委員会第4号」を見て怒りに震えました。23年もの間、トルコ航空機による日本人救出の真相を政府が一度たりとも説明しなかった理由が分かった気がしました。

日本政府、外務省は全く現地の状況を把握していなく、嘘八百を並べたいい訳の答弁を繰り返していました。マスコミもまた外務省の言い訳の答弁を鵜呑みにして報道していただけです。全く腹立たしくも、情けない日本側の対応がよく判りました。これが真実です。何が日本外交の成果ですか。日本政府の外交は「ゼロ」で、世界には相手にされていない。

トルコ航空機の日本人救出について1985年4月3日の第102回国会外務委員会での安倍晋太郎外務大臣の答弁内容。トルコの日本人救出は1890年9月の台風で沈没したオスマン帝国の軍艦の乗組員の救助をした和歌山県串本町大島の人々への恩返しだったのを日本外交の成果に変えてしまった。参議院会議録情報 第102回国会外務委員会第4号から。

 

トルコが動いたのは台風で沈没したトルコの軍艦の乗組員を手厚く救助した和歌山県串本町大島の人々の行為に対する恩返しだというのに………。トルコは大島の人々の献身的な救出活動を学校の教科書に掲載して、歴史的な国際貢献と位置づけて子供たちに学ばせました。その教育によって、育んだ人たちによる日本人救出だったのです。なんと素晴らしいことでしょうか。それに比べて私たちの国がしたことは………。串本町大島の人々の偉大なる真心に泥を塗ることと同然の行為をしたということです。

しかも、救出劇前日にトルコのトルグト・オザル首相に直に電話して救援機出動を懸命に働きかけたのは、当時の伊藤忠商事イスタンブール支店長の故森永堯(もりながたかし)さんだったのです。日本政府は自分たちがそれをやってのけたとすり替えていました。国会答弁では串本町大島の人々の人命救助、トルコの首相に直接電話して救援機出動を取り付けたことは一切報告されていませんでした。国会の会議録を一部引用します。

自民党の宮澤弘参院議員(宮澤喜一氏の弟):

結局、日航は救援に結果としてはいかなかったということになったわけでありますけれども、まずその辺の事情について承りたいと思います。

谷田正躬政府委員:
イラン・テヘランに対する爆撃は3月の12、14日と行われまして、その時点で大使館といたしましても、できるだけ邦人の引き揚げをすることを勧奨いたしまして、16日に大使館と日本人会との間の会合におきましてその旨が伝えられたわけでございます。ただ、その当時におきましては、まだ各国からテヘランに乗り入れている民間航空機会社は全部動いておりまして、かつ、3月の21日からイランのお正月が始まるということで、邦人の方のかなりの数が既に休暇ということでこういった航空機会社の切符を予約しておられる方が相当ございました。そういうことで、この時点におきましてはまだ事態は平静であったわけでございます。

ところが、17日、今ご指摘のようにイランの空域を閉鎖するというイラク側の警告が発せられまして、ただこの時点におきましてもまだ18、19日と2日間あるということで、まだ平静であったわけですが、ただ予期されませんでしたことは、18日になりますと、今まで乗り入れていた各国の定期便の会社が一斉に便を取りやめるということが18日に既に起こってしまったわけなんですね。空域閉鎖は始まりますのが20日の夜の8時からということだったわけですので、皆さん一応、18、19日とまだ2日間の余裕があるとあると思っておられたわけなんですが、それが実は予期しない情況に立ち至って、そこで一種のパニック状況というものが起こってしまったという状況がございました。

それで、政府といたしましては、実は16日ぐらいの段階からもう既にいろいろな方策を検討しておりまして、そのための方策といたしましては、まず既に乗り入れている各国の定期便を使用するということ、それからそういった国からのチャーター便も派遣できないかということも検討するというのが第一点。それからイラン航空機をさらに増便ないしはチャーターするということ。それから日航機の特別機を派遣するということも一つございましたし、それから最後の場合には陸路を伝って脱出する。こういったいろいろな方策を検討しておったわけです。

したがいまして、各国の航空機が18日全部一応取りやめになったという段階におきましては、我々としたしましても、早急にこの日、日航機派遣という状況も踏まえて日航側との連絡も行ってまいりましたし、現地の状況というものもその辺を踏まえて検討するようにと指令は出してあったわけでございます。

ところが、19日になりまして、またこの各国の航空機からそれぞれ救援機というような形で再び便が復活したしまして、その中でも特にトルコ航空が我が方からの要請を受けて特別に1台大型機を増便するという形になりましてこれに日本人を優先的に乗せるという話が出てまいりました。

結局、19日の午後になりまして、これは先ほどのイラクの警告のぎりぎりの時間でございましたけれども、2機がアンカラから参りまして、これに邦人が脱出希望者はほとんどすべて乗れるという形になりましたので、そういう状況がこちらでもすぐわかりましたものですから、日航機の緊急派遣という必要はなくなったというふうに判断されたわけでございます。

安倍晋太郎外務大臣:
ちょっと申し上げますが、日航機は派遣準備は全部整っておりましたし、最終的にはイラン・イラク両国の安全についても、両国政府からこれを保証するという連絡があって、いつでも飛び出せるという形になっておったわけですが、結局その必要がなかったわけでありまして、私は宮澤さんにもたまには日本も外交もほめていただきたいと思うのですが、これは日本外交の一つの大きなこれまでの積み重ねの成果であったと思うんですよ。

というのは、トルコが特別機を出したということですね。今回テヘランのああした脱出事件で、これは日本だけじゃなくて、各国とも在留の人たちは脱出していったんですが、特別機を出したというのは、それも日本のために出したというのは、トルコ航空だけでありましてこれはやはり、トルコと日本のこれまでの積み重ねた外交の成果であったと思いますね。

トルコに対するこれまでの日本の援助あるいはまた伝統的な日本とトルコとの友好関係、そういうものを背景にいたしまして現地における野村大使とトルコの大使との間で非常に親密な友情関係がありまして、そういういろいろな要素が重なりまして日本側の要請に快くこたえて、ああした困難な情勢の中でトルコは自分の国の人たちよりも日本の在留邦人を最優先して特別機に乗せていち早く脱出させてくれたということであって、まさにこれは、これまでの日本の外交が、そうした努力を積み重ねてきた現地の大使等の非常な涙ぐましい努力、そういうことに基づくものであって、私としてはこれはよかったというふうに大変喜んでおるわけであります。
(続く)

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沼田凖一 沼田凖一

1942年、青森県生まれ。1961年、プリンス社入社(66年に日産自動車と合併し、社名が日産自動車に)。78年にイラン自動車工場の技術指導担当。1985年3月、トルコ航空機でイラン・テヘランから救出された邦人215人の一人。その後93年までイラン自動車工場の技術指導を継続。95年に菊地プレス工業に転属、2002年に定年退職した。現在、串本ふるさと大使、エルトゥルルが世界を救う特別顧問、日本・トルコ協会会員。

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