【連載】知られざる地政学(塩原俊彦)

「知られざる地政学」連載(10)DNAをめぐる覇権争奪

塩原俊彦

 

 

 

拙著『知られざる地政学』〈下巻〉では、DNAをめぐって、つぎのように書いておいた。

「心配なのは、中国が「チベット人やウイグル人など少数民族の遺伝子追跡を大規模かつ明確に行っている」と考えられている点だ。最近では、そのために「eDNA」解析のようなツールが利用されようになるとの見方がある。ここでいうeDNAとは、「環境DNA」(environmental DNA)のことである。尿、剥がれた皮膚細胞など、あらゆるものがDNAを環境中に放出する。科学者は土や砂、水などからこのeDNAを採取し、どの種がどこに生息しているかを把握することができるというのだ。関心のある読者は『ネイチャー』掲載論文「不慮のヒトゲノム混獲と意図的な捕獲により、環境DNAの有益な応用と倫理的懸念が生じる」を参照してほしい。」

そこで、今回はDNAの覇権争奪にしぼって、その内情について論じたい。理由は簡単だ。2023年9月に「ワシントン・ポスト」(WP)に「ヒトの遺伝子データを求める中国、DNA軍拡競争への懸念に拍車をかける」という興味深い記事が掲載されたからである。

中国の「ファイア・アイ・ラボ」
記事は最初に、中国とセルビアとの遺伝子をめぐる密接な関係を明らかにしている。2020年4月、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のウイルス感染を検出できる高度なポータブル・ラボ、「ファイア・アイ」が中国からセルビアに輸送された。このファイア・アイはウイルスの遺伝暗号を解読するだけでなく、人間の遺伝暗号も解読することができる。2021年後半、セルビア当局は中国企業と協力し、このポータブル・ラボをセルビア国民の全ゲノム(遺伝子の設計図)を採取・管理する常設施設に改築すると発表した。

「ファイア・アイ・ラボ」はパンデミックの渦中にあって、急速に増殖する。「カナダ、ラトビアからサウジアラビアまで、エチオピア、南アフリカからオーストラリアまで、4大陸、20カ国以上に広がった」とWPは書いている。セルビアの首都ベオグラードにあるようないくつかの施設は現在、常設の遺伝子検査センターとして機能している。

不可解なBGIグループ
ファイア・アイ・ラボを製造するは、深圳に本社を置くBGI(Beijing Genomics Institute)グループだ。同グループは、中国国立ジーンバンクの構築と運営に携わっており、その中国国立ジーンバンクは膨大な政府所有の保管庫であり、現在では世界中の何百万人もの人々から収集された遺伝子データが含まれているという。米国防総省は2022年、BGIグループを米国で活動する複数の「中国軍事企業」のひとつとして公式にリストアップしている。さらに、米国政府は、中国国内の少数民族や宗教的少数派に対する政府の弾圧を支援するために、中国国内で収集された遺伝物質の分析を支援した疑いで、BGIグループの中国子会社をブラックリストに載せている。
2023年3月、アラブ首長国連邦(UAE)政府高官は、BGIグループが提供する遺伝子配列解析装置を用いて、首長国国民全員のDNAをマッピングすることを目的とした国家ゲノム戦略を発表するまでになっている。

中国の野望
WPの報道によれば、2015年、中国政府は「メイド・イン・チャイナ2025」計画を発表し、バイオテクノロジーを政府投資の最重要ターゲットとして、また国の経済的未来の柱として挙げた。その1年後、このビジョンの実現に向けた一歩として、中国共産党は、ヒトDNAの収集と解析のための大規模な取り組みを手始めに、中国を遺伝子科学における世界的リーダーにすることを意図した90億ドルのプログラムを開始する。

実は、カリフォルニア州・サンノゼのコンプリート・ゲノミクス社は、遺伝子配列決定技術における米国のリーダー企業であったが、2013年の段階で、かつてBeijing Genomics Instituteと呼ばれていた中国企業BGIグループに1億1800万ドルで買収された。当時、BGIグループは中国初の国家レベルの遺伝子情報保管施設として、北京に代わって管理する中国国立ジーンバンクの建設を進めていた。

BGIグループは、コンプリート・ゲノミクスの買収により、競争の激しい遺伝子シークエンシング技術市場におけるグローバル・プレーヤーとしての地位を確立する。BGIグループは米国企業のDNAシーケンス装置の特許を取得し、すぐにBGIファミリーの一部であるスピンオフ企業を通じて装置の製造と販売を開始する。米政府の米中経済安全保障検討委員会が作成した2019年の報告書によると、2019年までに、業務提携や株式購入を通じて、20社近くの中国企業が米国患者の遺伝子データやその他の個人記録の権利を取得していたという。

同時期、米司法当局は遺伝子データを大量に保有する企業が関与するハッキングの試みを追跡していた。2019年の司法省の起訴状では、中国の工作員が米国企業4社の患者データベースに不正アクセスしたとして告発されている。検察当局によると、ハッカーたちはDNA情報を含む8000万人以上のアメリカ人の個人医療データを吸い上げたとみられている。

BGIグループによるDNAデータの悪用懸念があるとして、監視対象となっているものとして、50カ国以上で販売されているNIFTYと呼ばれる人気の新生児遺伝子スクリーニング・キットもある。ノルウェーの国家消費者委員会は2022年、中国政府によって個人情報にアクセスされる恐れがあるとして、検査を利用する女性に警告を発した。ドイツとスロベニアの保健当局も、中国による新生児検査のデータ悪用の可能性を調査している。

BGIグループはSARS-CoV-2として知られるようになったウイルスの全ゲノムを解読する初期の取り組みに参加し、最初に紹介した「ファイア・アイ・ラボ」により、さらなる遺伝子情報の収集に乗り出しているのだ。
こうした延長線上において、中国は2035年までにバイオテクノロジーで世界のリーダーになる計画を発表しており、遺伝子情報を、何千もの新薬や治療法を生み出す可能性のある科学革命の重要な材料とみなしている。

中国側は、ファイア・アイ・ラボで得たデータを中国共産党や人民解放軍が利用することを否定している。しかし、2017年に制定された中国の国家情報法では、中国企業や国民は要求があればいつでも外国で入手した専有情報を共有する法的義務があると規定されている。2019年以降、中国は自国の膨大な遺伝資源を管理する法的枠組みも見直し、戦略的国家資源として再定義し、国家安全保障を含む理由から外国事業体のアクセスを厳しく制限している。中国の現行法では、外国団体が国内で遺伝物質を収集したり、そのような資源を海外に移動させたりすることは禁止されている。

ウイグル人への抑圧
世界各地で起きている人権侵害を調査・公表し、人権の尊重の実現に向けて、政府や企業、国際機関に対して、確固とした提言を行っている「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」は2017年12月に、「新疆ウイグル自治区の中国当局は、12歳から65歳までの全住民のDNAサンプル、指紋、虹彩スキャン、血液型を収集している」と発表した。
少数民族の選別にDNA情報が利用されているのだ。

中国に接近し、中国当局と同様の手法で、他の権威主義的国家がDNA情報に基づく少数民族の選別や差別、ないし、同化政策に利用することも十分に考えられる。

遺伝子兵器の開発
WPの記事では、2017年、人民解放軍が運営する国防大学による権威ある軍事戦略出版物の更新版において、生物兵器に関する項目が追加され、将来の戦争における「特定民族の遺伝子攻撃」の重要性が強調されたと指摘している。これは、DNAの構成に基づいて標的を選択して攻撃できる生物兵器のようだ。

こんな「生物兵器」が実際に開発できるかどうかはわからない。それでも、中国の人民解放軍は「敵」がそうした兵器を開発することを恐れて、そうした「遺伝子兵器」の開発を進めているらしい。

遺伝子のふしぎ
拙著『知られざる地政学』〈上巻〉では、「ふしぎな遺伝子」という項目を立てて、機能性DNA以外に存在する非機能性DNAの役割がわかるにつれて、「遺伝子が生物の形質を決めるという見方そのもの対する疑問も生まれている」と指摘しておいた。
その意味で、DNAデータだけでは、本当は遺伝子のふしぎを解明できるわけではない。ましてや、DNAがわかれば、その遺伝子が引き起こす病気がすべて治療できるわけでもない。

それでも、「DNA神話」は世界中に広がっている。DNA鑑定が絶対的な真実を教えてくれるといった見方は本来、間違っている。だが、為政者や権力者は、「科学の政治化」を利用して、科学の名のもとに、自分の権力を維持・拡大しようとする。そして、DNA関連技術を支援する。将来、国家や国家指導者が権力の維持・拡大のために利用するためだ。
こうした権力のメカニズムに気づいてほしい。そのためには、やはりよく「学ぶ」しかない。問題点を探究しつづけるしかないのだ。

 

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塩原俊彦 塩原俊彦

1956年生まれ。一橋大学大学院経済学研究科修士課程修了。学術博士。評論家。 著書:(2023年9~10月に社会評論社から『知られざる地政学』(上下巻)を刊行する) 【ウクライナ】 『ウクライナ戦争をどうみるか』(花伝社、2023)、『復讐としてのウクライナ戦争』(社会評論社、2022)『ウクライナ3.0』(同、2022)、『ウクライナ2.0』(同、2015)、『ウクライナ・ゲート』(同、2014) 【ロシア】 『プーチン3.0』(社会評論社、2022)、『プーチン露大統領とその仲間たち』(同、2016)、『プーチン2.0』(東洋書店、2012)、『「軍事大国」ロシアの虚実』(岩波書店、2009)、『ネオ KGB 帝国:ロシアの闇に迫る』(東洋書店、2008)、『ロシア経済の真実』(東洋経済新報社、2005)、『現代ロシアの経済構造』(慶應義塾大学出版会、2004)、『ロシアの軍需産業』(岩波新書、2003)などがある。 【エネルギー】 『核なき世界論』(東洋書店、2010)、『パイプラインの政治経済学』(法政大学出版局、2007)などがある。 【権力】 『なぜ「官僚」は腐敗するのか』(潮出版社、2018)、『官僚の世界史:腐敗の構造』(社会評論社、2016)、『民意と政治の断絶はなぜ起きた:官僚支配の民主主義』(ポプラ社、2016)、Anti-Corruption Policies(Maruzen Planet、2013)などがある。 【サイバー空間】 『サイバー空間における覇権争奪:個人・国家・産業・法規制のゆくえ』(社会評論社、2019)がある。

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