【連載】鑑定漂流ーDNA型鑑定独占は冤罪の罠ー(梶山天)

第51回 菅家さん釈放劇の舞台裏

梶山天

それは、刑務所生活を送っている菅家利和さんにとってみれば、何の前触れもなく、突然やってきた。再審が開かれるのか、どうか。まだ決まってもいない2009年6月4日のことだった。人生の17年半を女児殺害の犯人として逮捕後の拘置や服役で奪われた菅家さんがやっと自由の身になった。再審という裁判所の判断を待つまでもなく、東京高検が自ら刑の執行を停止し、千葉刑務所から彼を出獄させた。あれだけ高飛車に強気だった検察が白旗を上げ、降参したのだ。こんなことは、歴史上例を見ない。

スピード感のある釈放で、もう逃げられないと、検察が慌てふためいた姿をもろに見せた顛末は、国民の目には、映画での悪徳検察を彷彿させるような痛快なシーンに映ったに違いない。

再鑑定で検察側の鑑定人である大阪医科大学の鈴木廣一教授はY染色体・常染色体で多くの型が菅家さんのDNA型と異なっていた。弁護側の筑波大学の本田克也教授も菅家さんの無実を裏付けたのだが、鈴木鑑定の結果とも多数違っていたのだ。使う鑑定機器によって判定が誤判することを知っていた本田教授は、鈴木教授の鑑定は怪しいし、自分の出した鑑定結果が正しいと思ったが、それを言い張ると肝心な再審がなくなる可能性もあった。それでも、菅家さんが犯人でないことはもう明らかで、手柄を鈴木教授に取らせてでも再審を優先した。だからこそ、鈴木鑑定と異なっていた型は全て明らかにせず、鈴木教授が鑑定できない部位であるMCT118法などを提出した。それが再鑑定の真相である。

だから、本田教授は警察庁の科学警察研究所(科警研)の旧鑑定の肌着遺留精液と菅家さんの血液が全く合わないことなどをきっちりと証明して、検察の逃げ道を塞いだ。捜査機関は、ぐうの音も出なかった。

前回の連載で検察が急に足利事件被害者の母親を呼び出し、口腔内粘膜細胞を採取し、被害者の臍の緒を借り受けたことを紹介した。検察は鈴木教授を使って再鑑定の際に本田教授に電話で鑑定内容を探らせて得た情報で、本田教授の鑑定は犯人ではなく、被害者かその母親のDNA型を掘り当てたのではないかという情報に期待したが、予想が外れたため、慌てふためいたのだ。それにしても逮捕から十数年経つのに捜査による鑑定の基本である被害者や家族の鑑定をしていない科警研というのも鑑定機関として無能で、捜査の基本すらできていない組織だということがここで露見した。捜査の都合のいい結果におどらされるこんな組織は早く解体、捜査機関から独立させ、公平な検査機関として新たに作るしかない。

しかも急務だ。戦争はないと誓った日本。武器購入などはいらない。いるのは冤罪対策だ。

検察のいきなりの菅家さん釈放劇に日本列島は「検察もなかなかやるじゃないか」などと沸きに沸いた。実はこの釈放を実現させたのは検察ではない。能力のある弁護士は考えることが違う。足利事件控訴審から弁護団を引っ張ってきた佐藤博史弁護士は、刑事訴訟法では、再審の開始前であっても検察官が刑の執行を停止できると定められている(第442条)のを利用したのだ。菅家さん釈放の3日前、弁護団は再鑑定で菅家さんの無罪は明らかな結果で、刑の執行を停止しない検察を不当だとして宇都宮地裁に異議申し立てを行い、検察を揺さぶったのだ。ここまで来て動かなかったら国民の信頼を本当に失ってしまうと追い詰められた検察は従うしかなかった。

菅家さんが釈放される4日、東京高検は「新鑑定結果は再審開始要件である『無罪を言い渡すべき明らかな証拠』たり得る」とする意見書を提出し、合わせて刑の執行を停止する手続きを行った。この足利事件では裁判所、検察のいずれもやる事なす事本来の職責を全うすることは皆無だったと言えよう。言わせてもらうがこの事件は、どんなに遅くとも最高裁では菅家さんは無罪にならなきゃいけない事件であることを裁判所、検察、警察は肝に銘じてもらいたい。何度でも指摘するが冤罪対策が全くできていないし、対策を話し合う事すらしない関係省庁の怠慢な姿勢にある。未だにその怠慢が変わらない。

さて、菅家さんが釈放された当時、朝日新聞東京本社マーケーティング主査(09年4月に西部本社報道センター地域面監事から異動)の梶山天は、休日を利用して菅家さんを取材したので刑務所を出る菅家さんの「その日」を追いかけてみた。

刑務所内では、たいてい名まえは番号で呼ばれる。いつもと変わらず朝食を食べて、一八七番と書かれた作業着に着替えて工場に出て、午前8時に日課である作業を始めた。この日は、ビニール袋に電気ゴテで取っ手をつける仕事だったが、自分の持ち場は、袋のふちに開けられた穴にひもを通していって結ぶという簡単な作業だった。

1時間半作業をしたところで、看守から呼ばれた。手を止めて立ち上がり、看守のもとに近づくと耳元で「今から処遇だ」と言われた。処遇と言えば、本来は懲罰を受ける可能性のある人を調べる場所で、自分は今まで一度たりとも呼ばれたことはない。悪いことをした心当たりはなく、何だろうと心配しながら看守の後ろをついて歩いた。四畳半ほどの処遇の部屋に入ると、看守が雑談を始めた。

看守:「出身はどこだ?」

菅家:「足利です。町はだいぶ変わったでしょうか」

看守:「さあな、行ったことがないから、わからないなあ」

そう言われると、返す言葉がなくなり、自然と会話が途切れ、長い沈黙が続いた。その後別の看守が1人部屋に入って来るや、机の上に週刊紙大の紙1枚をさっと差し出した。菅家さんは下から上へと目を移して字を追う。何が書いてあるのか覚えていなかったが、紙の一番上に「釈放」という文字だけは読めたという。あまりに突然のことで、何が起きているのか理解できなかった。

それはそうだろう。菅家さんは何か悪いことを疑われて「処遇」という部屋に来ていると思っていたし、まだ再審も行われていないのだから何が何だかわからないというのは当然なのかもしれない。

その後看守から釈放を知らされてから間もなく、昼食のカレーを看守が持ってきて出て行ったので一人で食べた。堅い肉がちょろちょろと入った麦飯のカレーで、いつもの倍くらいの量があった。まずいと思っていたご飯が、この日は不思議とおいしく感じられて全部たいらげた。

カレーを食べ終えて、午後になって、荷物の整理をした。房にあった荷物を看守が持ってきて領置してある荷物と一緒に並べた。タオルやパンツ、歯ブラシや本などを一つずつ、数や名前を点検しながら段ボール箱に詰めていった。何の前触れもなく、いきなりだから仕方がない。段ボールは計三つ。詰め終わった際に看守が一言「ご苦労様」と声をかけてくれた。

荷造りを終えると、風呂場に案内され、「好きなだけ、ゆっくりと入っていいぞ」と言われ、いつもは15分と決められたお風呂場で髭を剃って体を洗って、30分以上はそこでくつろいだ。大きな湯船にたった1人でのびのびと浸っていると、深い感慨が湧いてきた。

風呂から上がると、刑務所の作業着をそのままにして、久しぶりに自分の服に着替えた。逮捕当時の服は既に破棄していたので、自分の服とはいっても東京拘置所にいたころに差し入れしてもらった長袖の白シャツと灰色のスウェットパンツだった。

風呂場からは、今まで行ったこともない会議室へと案内され、そこには何と佐藤弁護士と西巻糸子さんが待っていた。その間には、もうアクリル板の仕切りはない。2人の顔を見た途端だった。菅家さんの目から涙がこぼれ落ちた。3人で手を取り合い、抱き合いながら思いっきり泣いた。

看守からは、現金が入った茶封筒を受け取った。工場で働いた40万円ちょっとの報奨金に、拘置所で支援者から差し入れてもらった領置金合わせて93万3994円が入っていた。西巻さんがズボンやワイシャツ、ジャケットに革靴を用意してくれていたのでスェットパンツからまた着替えた。菅家さんたちがいた会議室はすぐ外へとつながっていて、扉一つ開けただけでそこには迎えの車が待機していた。菅家さんたちは三つの段ボールを手分けして抱えながら目の前のワゴン車に乗り込んだ。

車は約50メートル進むと、背の高い門の前で止まった。菅家さんは看守が手で門を開けるのを呆然と見つめていた。ゆっくりと開いた門の向こうに、大勢の報道陣がいるのが見えた。いよいよ車が動きだした。

千葉刑務所を出る際にワゴン車の中から報道陣に思わず手を振る菅家利和さん。隣は佐藤博史弁護士。

 

「菅家さん、おめでとう!」との声が響いた。その声に舞いあがって思わず窓から手を振る菅家さんがいた。久しぶりにシャバに出てきて、出迎えに来てくださった人たちや、窓の外を流れていく景色を眺めていると、何か、昔とは全然雰囲気が違っているように思えた。

夕方には、記者会見のため千葉市内のホテルに行った。会見の前に、ホテルのコーヒーを飲んだ。刑務所では絶対に味わえない旨みが、体中にしみわたっていくのが分かった。会見で自分がどんなことを話したか、おぼろげにしか覚えていない。たくさんのカメラを向けられて、正直緊張しましたが、自分なりに聞かれたことにしっかりと答えたつもりです。逮捕される前の自分には、あんなふうに話すことはできませんでした。皮肉な話ではありますが、刑務所で鍛えられたおかげで、人前でも話ができるようになりました。

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梶山天 梶山天

独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。

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