【特集】イスラエル・パレスチナ問題の背景と本質

これは宗教紛争ではない イスラエルが潰した「パレスチナ和平」

広岡裕児

パレスチナの過激派ハマスの大規模なテロ行為をきっかけに、イスラエルがガザ地区を徹底攻撃している。憎悪、不信、泥仕合。だが――。

和平協定

いまから30年ほど前、1994年のノーベル平和賞の受賞者は、イスラエルのイツハク・ラビン首相とシモン・ペレス外相、そしてPLO(パレスチナ解放機構)のヤセル・アラファト議長であった。

その前年、1993年9月13日、アメリカ・ワシントンのホワイトハウスの芝生の上で、ビル・クリントン大統領に促されてラビン首相とアラファト議長が握手した。集まった2500人の招待客から大きな拍手が沸いた。和平協定に署名したのである。

《イスラエルとPLOは歴史との出会いを逃さなかった。》これを報じるフランスのル・モンド紙の論説はこう始まった。

《この歴史的な日に、イスラエル人とパレスチナ人は誠実であることを信じさせた。どちらの側も、「血はもう十分だ!涙はもう十分だ!」という平和のメッセージの先で、自分の苦しみを隠そうとしたり、懸念を隠そうとしたりしなかった。ヤセル・アラファト議長との待望の握手の前のイツハク・ラビン首相のわずかな躊躇でさえも、なされた約束の真剣さのさらなる保証のようにみられただろう。和解は苦痛だっただけに、なおさら長続きするだろう。》

記念演説でラビン首相は言う。

「私たちは、私たちの子どもたち、そして私たちの子どもたちの子どもたちが、戦争・暴力・テロの痛ましい代償を払わなくてすむように、敵対関係を終わらせようと努めるために来ています。私たちは彼らの存在の安全を確保し、悲しみや過去の辛い記憶を和らげ、平和を望み祈るために来ています。言わせてください。パレスチナ人の皆さん、私たちは同じ土地の同じ土壌で一緒に暮らす運命にあると。血に染まりながら戦闘から帰還した兵士たち、家族や友人が目の前で惨殺されるのを見た私たち、葬式に参列し親の目をまともに見られなかった私たち、子どもたちを埋葬するのは親であり、あなたたちパレスチナ人と戦ったのは私たちです。私たちは今日、大きな声ではっきりと言います。『血も涙も十分だ、もうたくさんだ!』。私たちに復讐の欲望はまったくありません。あなた方に対して何の憎しみも抱いていません。私たちもあなたたちと同じように、家を建て、木を植え、愛し、尊厳を持って、親近感を持って、人間として、自由な人間としてあなたたちと一緒に暮らしたいと願う民なのです」

PLOのアラファト議長は列席した各国代表に向かって訴えた。

「我が民は、今日署名するこの協定が、平和・共存・平等な権利の時代につながることを望んでいます。(クリントン)大統領、我々はあなたと、中東の平和なくして世界の平和は完全ではないと信じるすべての国が果たす役割に期待しています」

そして、

「我が民は、自主決定権の行使が隣人の権利を侵害したり、隣人の安全を損なったりできるとは考えていません。それどころか、虐待されてきた、歴史的不正義に苦しんできたという感情に終止符を打つことは、両国国民と将来の世代の間の共存と開放を達成するための最も強力な保証となります。我ら両国の民は今日、この歴史的な希望を待望しており、平和に真のチャンスを与えたいと考えています」

和平協定のもとになったのは、この3週間前、ノルウェーの首都オスロで締結された合意である。

《イスラエル政府とパレスチナ人民を代表するパレスチナのチームは、数十年にわたる対立と紛争に終止符を打ち、互いの正当な政治的権利を認め、平和共存と相互の尊厳と安全保障の中で生きるよう努力する時が来たことに同意する。合意された政治プロセスを通じて、公正かつ永続的かつ包括的な和平解決と歴史的和解を達成する。》

オスロ合意の前文はこう謳う。ガザ地区とヨルダン川西岸地区を領土とする暫定自治政府を設立する。単なる自治地域ではなく実質的な国家である。イスラエルはこれを承認する。そして、この自治政府はイスラエルを国家として認める。

アラファト議長はフランスのテレビの取材で合意内容を聞かれ、紙の上に細長い四角を書いて真ん中に線を入れて半分ずつに分けた。

パレスチナ人の「建国」

エルサレムは歩いて15分ほどで横断できる旧市街地を中心に、東京の区部と同じぐらいの広がりがある。その東側はイスラム教徒すなわちパレスチナ人地区で、西側はユダヤ教徒すなわちイスラエル地区である。ラビンとアラファトの握手に、東エルサレムは歓喜で沸いた。

 

イスラエルは、英国の委任統治領パレスチナのうちヨルダン王国として独立したヨルダン川東岸をのぞいた地域に、ローマ帝国によって追われたユダヤ人が「戻ってきて」建国した地である。1947年の国連決議によってヨルダン川西岸地区とガザ地区を中心とした地域をパレスチナに、その他をイスラエルにするとされた。

しかし、現在そこに住んでいるパレスチナ人は到来したユダヤ人に追われたわけで、アラブ諸国は納得できないと戦争になった。もっとも現実には、難民となって大量に流入してくるのも困るという理由もある。戦争は大敗で、当初の国連決議案よりも狭い地域がパレスチナ人居住地域となった。さらにこの両地区も、1967年6月の第3次中東戦争(6日間戦争)で、イスラエルに占領されてしまった。

オスロ合意によって、この占領地域からイスラエルは暫定的に撤退し、パレスチナは完全自治を樹立する。決して、ガザの住民の7割にのぼる難民が故郷に帰れるわけではない。国外にいる難民が戻れるわけでもない。それでも、26年間の軍事占領から解放される。自分たちの国ができる大きな一歩だったのである。

ホワイトハウスでの演説でアラファト議長は、「今我々は歴史の新たな時代の入り口に立っている、我々が今日初めて会うイスラエルの人々とその指導者たちに呼びかけたいと思う。我々が一緒に下した難しい決断は、並外れた勇気を必要とするものであった」と述べたが、まさにその通りだった。

パレスチナにはあくまでもイスラエルの消滅を求めるハマスやイスラム聖戦(パレスチナ・イスラミック・ジハード)などの過激派がいる。一方、ラビン首相はオスロ合意の後、連立していた宗教政党シャスが離れ、アラブ系政党の閣外協力を得てかろうじて議会の過半数を確保していた。民族派でパレスチナとの妥協を許さない最大野党リクードの党首ベンヤミン・ネタニヤフが人気を上げてきていた。

治安も決して平穏ではなかった。1987年末にガザ地区でのイスラエル人とパレスチナ人の車の死者の出た衝突事故をきっかけに、第1回目の大規模な民衆蜂起「インティファーダ」が始まっていた。イスラエルへのロケット弾の攻撃や侵入・デモなどもあり、それを口実にイスラエルは弾圧、10倍返しでの攻撃を繰り返していた。下火になったとはいえ、この年になっても続いていた。

リクード党首の愚行

ラビン首相はノーベル平和賞受賞の記者会見で「ちょっとしたミスで建物全体が崩壊につながる可能性がある」と語ったが、危惧は1年もたたぬうちに現実になってしまった。1995年11月4日、ユダヤ人青年がラビン首相を暗殺した。翌年の総選挙、首相公選でリクードのネタニヤフが勝った。

オスロ合意ではヨルダン川西岸とガザ地区からイスラエルが撤退する期間は5年間と定められていた。つまり、本来なら、1998年にはアラブ人とユダヤ人が共存する平和なパレスチナが成立していたはずであった。ところが、イスラエルの軍は撤退しても多くの住民はそのまま残り、紙吹雪に例えられる無数のシミのようなイスラエルの支配する飛び地をつくっていた。そればかりではなく、新たに入植する者たちもある。

かくして、7年後の2000年でも、パレスチナ自治政府はガザ地区の70%、ヨルダン川西岸地区の13%、合計で領土の20%を支配するだけであった。

1999年にエフド・バラク政権が誕生した。故ラビン元首相と同じ労働党でパレスチナ暫定自治政府との和解に積極的な姿勢を見せていたが、入植についてはむしろ促進派であった。

2000年7月には、クリントン大統領の仲介によってキャンプ・デービッドでアラファト議長との交渉が行なわれたが、失敗に終わった。

決定打は、その2カ月後に来た。エルサレムの旧市街の東側には丘があって、その上にイスラム教の第3の聖地とされる岩のドームなどがあるハラム・アッシャリーフ(高貴なる聖所)と呼ばれる広場がある。9月28日早朝、当時最大野党となっていたリクードのアリエル・シャロン党首が議員6名とともにハラム・アッシャリーフを散歩した。ここは、ユダヤ教の神殿があったところで、丘の西の側面の壁は「嘆きの壁」としてユダヤ教の聖地となっており、「神殿の丘」とも呼ばれている。シャロン党首は「神殿の丘を訪問しに来た。私たちは平和と協力のメッセージを届ける」と記者団に語った。

シャロンはタカ派の中のタカ派で、1982年、国防相の時に起きた、レバノンのサブラ・シャティーラ難民キャンプのパレスチナ人2000人の虐殺事件の責任者とされるほどの反パレスチナである。挑発であることは明らかだった。

緊張はすぐに高まり、そこに集まったパレスチナ人が「アラー・アクバル」(神は偉大なり)と叫んだ。翌日にはデモが起き、イスラエル警察が発砲。2度目の「インティファーダ」になった。30日には12歳の少年モハメッド・アリュデュラがイスラエル軍の銃弾に当たって死に、国際的な大反響を呼んだ。

このインティファーダは2005年3月8日まで続いた。その間にイスラエル人1010名、パレスチナ人3179名が死亡した。

ちなみにこの頃、汚職容疑がかかっていたライバルのネタニヤフの不起訴が決定した。シャロンはネタニヤフに党指導者の地位を明け渡さないことも、この行動の理由の1つだったと自ら話している。

権力亡者の政治屋の愚行の代償は大きかった。2001年3月に首相になったシャロンはヨルダン川西岸とガザ地区に軍を侵攻させ、支配下に置いた。そして、延々と分離壁を建設した。アラファト議長に「第1の敵」の烙印を押し、1年以上にわたる軟禁の後、銃を突きつけて逮捕・連行した。

2004年にはヨルダン川西岸とガザ地区からの撤退計画を発表した。実際にはヨルダン川西岸にはいまでも入植者が多数残っており、新しい入植も行なわれている。しかし、ガザからはイスラエル人は撤退した。

一見パレスチナ人の自治を尊重したもののように見える。だが、実際は逆である。ガザにも分離壁をつくって、かつてナチス・ドイツがユダヤ人を閉じ込めたゲットーの拡大版とした。そして何より、イスラエル人がいなくなったから安心して空襲できた。

ホワイトハウスでラビン首相は「私たちは人々の間、戦争にうんざりした親の間、そして戦争を知らないであろう子どもたちの間の関係の再生を始めます」と述べた。この日以降生まれるのは戦争を知らない子どもたちだ、という願いは粉々に打ち砕かれた。

《イスラエルとパレスチナ人の間の紛争は宗教紛争ではない。これは、2つのナショナリズムを和解させ、2つの民族を相互承認に基づいて共存させることを目的としたプロセスにおいて、最も深刻で、最も痛みを伴い、最も致命的な失敗である。(略)もちろん両陣営に宗教的過激派は存在しているが、パレスチナ人の怒りは反ユダヤではない。反イスラエルなのである。》(ル・モンド2000年10月14日付、ムナ・ナイム記者)

(月刊「紙の爆弾」2023年12月号より)

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広岡裕児 広岡裕児

フランス在住ジャーナリストでシンクタンクメンバー。著書に『皇族』(中公文庫)、『エコノミストには絶対分からないEU危機』(文春新書)他。

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