世界を裏から見てみよう:戦艦大和に見た敗戦と現在
漫画・パロディ・絵画・写真大艦巨砲主義
明治から昭和、そして太平洋戦争に至るまで軍艦による戦争に国をあげて挑んできた日本は、米国とのミッドウェー海戦の壊滅的敗北を契機として、敗戦へと追い込まれていった。
戦艦「大和」に至っては、戦争末期に広島・呉の軍港から沖縄に向けて出港するも、鹿児島の坊ノ岬沖で米海軍の艦載機による攻撃を受けてあえなく撃沈された。
大和は直径46センチの巨大主砲を持つ大戦艦。英米など各国海軍の艦隊でも、大きな砲弾を遠距離の射程で発射する戦艦が、当時の戦闘の中心であった。しかし、大和が完成する頃には、すでに海戦の主役は艦から空母機に移っており、大和は実戦での活躍を見ることなく、その姿を東シナ海に沈めている。
大日本帝国の内部でも、当時すでに大鑑巨砲主義への批判は少なくなかったとされる。源田実中佐は大鑑巨砲主義に執着する軍部を「秦の始皇帝は阿房宮をつくり、日本海軍は戦艦大和をつくり、共に笑いを後世に残した」と批判。一切を航空主兵に切り替えるようにと訴えた。藤田正路・第2艦隊砲備参謀は大和の主砲射撃を見て、1942年5月11日の日誌にこう書き記している。「すでに戦艦は有用なる兵種にあらず、今、重んぜられるはただ従来の惰性。偶像崇拝的信仰を得つつある」。
それでも海軍が、大鑑巨砲主義を捨てきれなかったのはなぜか。日本が敗北に至った主な原因も、ここにある。そこには戦艦建造に関わる企業の存在があった。
明治・昭和にかけて日本は「富国強兵」を掲げて軍備拡大を国家の主要テーマとしてきた。「富国強兵」とは、つまるところ「欧米列強に対抗するための国策」だ。その重要な拠点の1つとして、呉鎮守府が呉の地に設置されたのは1889(明治22)年。呉は3方を山に囲まれて防御に優れ、艦艇の入出港も可能なため、生産活動の拠点として適していた。それまで1万7千人前後だった呉の人口は、1890年には約2万4500人に増加した。
現在の日本には、水上艦と潜水艦を合わせた艦船のメーカーとして三菱重工・三井E&S・ジャパンマリンユナイテッド(JMU)・川崎重工の4社がある。戦前の官営造船所は、海軍工廠としては呉海軍工業・横須賀海軍工業・佐世保海軍工業・舞鶴海軍工業。民間にも浅野造船所(日本鋼管鶴見造船所)・石川島造船所・大阪鉄工所(日立造船)・川崎造船所(川崎重工業)・神戸製鋼所造船部、三菱造船など多数が運営されていた。
日清・日露両戦争での勝利後には、政府指導のもとにラジオを通じて軍艦マーチが流された。戦時中、幼少だった私も聞いていたのだろうが、記憶にはない。
大和ミュージアム
大和にゆかりの深い大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)を、最近、初めて訪れた。館内の中央に、10分の1スケール(26メートル)の大和がデンと展示されている。これでも圧倒される大きさだが、実際の260メートルという長大の戦艦は、どんな迫力だっただろうか。
東京タワーや横浜のランドマークには及ばないものの、東京都庁より高く、大阪の咲洲庁舎は256メートル。このクラスの高層ビルが横たわっているようなものだ。直径46センチの砲身も、想像外の太さだろう。最大射程は約42キロ。東京駅から取手・戸塚(横浜市)・日野あたりまでの距離となる。
ミュージアムには、戦艦大和のレプリカ以外に呉の歴史が写真と文章で表示されている。戦艦「長門」、航空母艦「赤城」、その他、巡洋艦など5隻。潜水艦「伊号第16」など4隻。呉で建造された艦艇の数は驚くなかれ133隻だ。
大和の船体を携帯カメラに収めながら歩を進めた。沖縄に上陸した米軍を攻撃するため1945年4月5日に呉から出港し、2日後に沈没。乗員3332名のうち、9割の3056人が戦死した。6月23日の「慰霊の日」に合わせ、沖縄戦の犠牲者を悼む「平和の礎」(沖縄県糸満市)に今年は365人が追加された。うち7割超の277人は、大和の広島県出身の乗組員だった。「沖縄を守るため、多くの人が命を落としたことを伝えたい」と、広島県内の男性の尽力によって刻銘が実現したという。
しかし、巨大な模型からは、その悲劇は伝わってこない。戦艦大和は明らかに「負の遺産」なのだ。単純に威容を崇め奉るのではなく、過去の戦争の悲惨な歴史に真摯に向き合うことこそ、私たちに残された課題だろう。改めて、心成らずも海の藻屑と消えた乗組員の冥福を祈るとしよう。
オレンジ計画
ロシアのアジア進出への牽制を目的として、明治末期の1902年に結ばれた「日英同盟」は、1921~22年のワシントン会議を契機に破棄された。
ワシントン会議は第1次世界大戦後に米国ワシントンDCで開かれた国際軍縮会議で、日本は海軍軍拡が制限され、山東半島の権益を放棄するなど中国進出を抑制された。主力艦の総トン数比率は米・英・日・仏・伊で「5:5:3:1・67:1・67」。これを不公平だと日本は反発した。
米英は日本を敵国とみなし、軍艦製造に歯止めをかけた。米英合わせて10対3では日本が不利であることは容易に理解できる。
また米国は、将来起こり得る戦争に向けて、1920年代には各種の戦争計画を立案していた。それが「カラーコード戦争計画」で、交戦の可能性のある当時の各国を色分けし、ドイツは黒、イギリスは赤、メキシコは緑、日本はオレンジで表示している。
オレンジ計画が出来たのは1924年。その後、日本に対する具体的な戦術が盛り込まれていくこととなった。日露戦争後、日本に巨額投資してきた米国の鉄道王・ハリマンが、日本側に南満州鉄道の共同経営を求めた「桂・ハリマン協定」が、小村寿太郎外相の強硬な反対によって破棄されている。アメリカの中国利権への介入が、当時の情勢の背景にあったようだ。
太平洋戦争では、日本海軍は1941年12月の真珠湾攻撃で米国に宣戦布告し気勢を上げるも、米国は空母をはじめ主力艦隊を、グアムに避難させていた。事前に日本艦隊の攻撃を無線傍受しており、わざと日本海軍の攻撃を〝容認〟したのだ。これがルーズベルト大統領をはじめとする米国の作戦だった。対日参戦はすでに準備されており、日本海軍はまんまと「おとり作戦」に引っかかったというわけだ。
そんな太平洋戦争の敗戦によって日本は現在に至るまで、米国の支配下に置かれ続けている。最近では、もはや隠す様子すらなく、日本は宗主国の軍産複合体に巨額を貢ぎつつ、一緒になって「対中戦争」の可能性を煽っているのだ。
海底の墓標
富国強兵のシンボルでもあった軍港・呉は、1945年7月、米軍の焼夷弾攻撃により破壊された。翌月の広島市内への原爆投下のキノコ雲も、呉からはっきり目撃できたという。その様子も、ミュージアムではこんな風に表現されていた。「それは、淡いピンクを帯びた艶やかな色で、朝日を反射して太く逞しく突っ立ち、内からめくれるようにキノコ状に広がり、驚くべき高速度で蒼大に突き上がりつつあった」。
写真家の戸村裕行氏が、大和ミュージアムをはじめとした各所で、「群青の追憶~海底に眠る戦争の遺産を追う~」という写真展を開いている。戸村氏は2018年に出版した同名の写真集で、いまも沈没している日本の艦船の様子をこんな風に書いている。
「潜水して撮影した場所は太平洋の広域にわたる。ソロモン諸島(ガダルカナル島)、トラック島、サイパン、北マリアナ諸島などだ。この他、広範囲にわたって日本の軍艦や輸送船が沈没、引き上げはままならない状態だ。戦艦大和に匹敵する連合艦隊の旗艦の『陸奥』は瀬戸内海の柱島泊地で警泊中、主砲火薬庫が火元とされる原因不明の爆発事故を起こし、その姿を海底に移すことになった」
(月刊「紙の爆弾」2023年12月号より)
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日本では数少ないパロディスト(風刺アーティスト)の一人。小泉政権の自民党(2005年参議院選)ポスターを茶化したことに対して安倍晋三幹事長(当時)から内容証明付きの「通告書」が送付され、恫喝を受けた。以後、安倍政権の言論弾圧は目に余るものがあることは周知の通り。風刺による権力批判の手を緩めずパロディの毒饅頭を作り続ける意志は固い。