マッド・アマノ 裏から世界を見てみよう 第115回 『ちびくろサンボ』再考
漫画・パロディ・絵画・写真「黒いバンドエイド」
1980年、宣伝部に13年勤めた会社を辞めてフリーデザイナーになり、即、アメリカに単身旅行に出た。40歳そこそこだった。昔の言葉に「30にして立つ、410にして惑わず」とあるが、私は40にして立ったわけだ。
まっ、それほど大袈裟ではないが、友人・知人・親戚にレストラン貸切の壮行会をやってもらった以上、何かしらのグッドニュースを持ち帰らねばといった意気込みはあったように記憶する。
羽田空港で見送りの家族や友人と別れて階段を降りる時、ハプニングが起きた。
当時流行っていたロック・ミュージシャンが愛用するハイヒール・シューズを粋がって履いて、下り階段で転けてしまったのだ。
捻挫をせずにすんだだけでも良しとしなければ。
そう思いながら機上の人となった。
と、のっけから昔話で恐縮至極だが、ロサンゼルスに到着すると、翌日、イラストレーターの長岡秀星さんに会い、彼の事務所でコーヒーを啜りながら、アメリカ移住の四方山話を聞くことになる。
特に面白かったのが「黒いバンドエイド」だ。
長岡さんは当時、兄妹デュオ・カーペンターズのレコードジャケットを手がけるなど、当時としては珍しかったエアブラシによるイラストの大家として名を轟かせていた。
彼の体験談が面白いのなんの。
ある時、長岡さんはこう切り出した。
「この間、テレビのバラエティ番組でやってたんだが、黒人がドラッグストアにやって来て、『黒いバンドエイドあるかい?』と白い歯を見せて、意地悪そうにニヤッと笑った。
白人の店員は恐る恐る『すみません。ありません』。
スタジオの聴衆から大きな笑いが起きた。
白人を困らせる黒人に拍手喝采なんだよね」
黒人差別はあっても、当事者にはジョークを飛ばす余裕すら感じていたそうだ。
「もしかすると脚本は黒人が書いたのかも」との私の感想に長岡さんは「その通りかもね」。
その後、ハリウッドの商店街を歩く黒人たちの楽しそうな様子を目にしたのだった。
アメリカの「差別」
それでも、アフリカ大陸から奴隷として別の大陸に連れてこられ、その地で受けた何世代にもわたる差別の苦しみは、想像に絶するものがある。
現在、あらためて人種差別に正面から向き合う取り組みが、アメリカで始まっているという。
NHKロサンゼルス支局長・佐伯敏記者の記事を引用する(「国際ニュースナビ」2023年9月18日付)。
〈その最前線にはひとりの日系アメリカ人がいます。彼を突き動かすのは、かつて日系人が黒人たちから受けた恩を、いまこそ返すべきだという思いです。〉
〈カリフォルニア州の特別委員会は6月29日、黒人に対する補償のあり方について最終報告書を発表し、記者会見を開きました。黒人の委員たちが並ぶなか、その日系人は明らかに異彩を放っていました。彼の名前はドナルド・タマキ。
日系3世のアメリカ人で、弁護士です。彼は次のように続けました。「日系人と黒人の絆についてみなさんにお話ししたい。これは本当に、わたし個人にも関わることなのです」〉
タマキ弁護士の住むサンフランシスコの競馬場は、真珠湾攻撃翌年の1942年から、日系人収容施設として使われていた。
その敷地の一角に建てられた少女たちの銅像には、収容されたおよそ8千人の名前が刻印されたプレートがあり、タマキ弁護士の両親の名前もあるという。
記事は続く。
〈その後、アメリカでは日系人の連邦議会議員が相次いで誕生し、1970年代後半からは日系人の強制収容に対する補償を求める運動が高まっていきました。日系人社会の取り組みは1988年、レーガン大統領が「市民の自由法」に署名し、日系人に対する補償が実現したことで、一応の決着を迎えました。こうした動きを後押ししたのは、1960年代から活発化していた黒人による公民権運動だったとタマキ弁護士は話します。〉
〈キング牧師らが主導した1960年代の黒人の公民権運動がなければ、日系人のいまはなかったということです。公民権運動が扉をこじ開け、ほかのさまざまなマイノリティがそのドアを通っていきました。〉
とはいえ、アメリカでは、黒人への補償を実現させた州はいまだにないそうだ。
タマキ弁護士は最後にこう締めくくっている。
「わたしたち日系人が収容所に送られたのは、そのはるか前から行なわれてきた黒人差別を止められなかった結果でもあります。
人種差別は歴史のなかで繰り返され、ある時、私たち日系人にもふりかかってきました。
これはアフリカ系アメリカ人の正義のためであると同時に、日系人のための取り組みでもあります」
絵本『ちびくろサンボ』排斥運動の真相
一方、アメリカの黒人差別と日本人との関わりにおいて、もっとも有名な〝事件〟が絵本『ちびくろサンボ』だろう。
1899年に英国で発売後、一時は絶版となったこの本の著者はヘレン・バナーマン。
日本では1953年に岩波書店から刊行され、販売部数は100万部を超える。
主人公の黒人少年・サンボは、著者が当時英国の植民地だったインドに住んでいたことからインド人とされる。
また、トラはインドには生息しても、アフリカにはいない。
「サンボ」はインド・グルカ地方で極めて多い名前である。
絵本のストーリーを、大まかに言うとこうだ。サンボはジャングルで4匹のトラに出会い、食べられそうになるも、着ていた服と靴、傘をトラに渡すことで一命をとりとめる。
トラたちはサンボの服を着て靴を履き、「オレが一番立派だ」といがみ合って木の周りを互いにグルグルと追いかけ回す。すると、トラの身体がドロドロに溶けて、ギー(インドのバター)に変わる。
サンボは服を取り戻し、そのバターで作ったパンケーキをたらふく食べた。
なんとも他愛ないストーリーだ。
しかし、1988年、これが「黒人差別」に当たるといってクレームを付けたのが、日本人というのだから驚く。
騒ぎは米ワシントン・ポスト紙が、東京のそごうで陳列されていた黒人マネキンや、サンリオのキャラクター「サンボ&ハンナ」などを批判し、「日本人の黒人差別はよろしくないのでは?」といった記事を掲載したことから始まった。
えっ、これってどこかで最近聞いた話じゃないか? そう、ジャニー喜多川氏の性加害を英BBC放送が報じ、日本で大騒動に発展した一件である。
それはさておき、米国の報道を契機に大阪・堺市で発足した「黒人差別をなくす会」が、日本国内での抗議行動を始める。
といってもメンバーは会長の母親と父親、小学校4年生の息子の3人で、『ちびくろサンボ』を対象にしたのは息子の発案だとされる。
騒動を契機に名が売れて会員数を増やし、95年には225人となっている。
今もそうだが、特に「人種差別」で世論に火が点くと、歴史的な議論が棚に上げられ、ただひたすら「差別は許せない」という主張だけが暴走しがちだ。
「なくす会」の抗議活動で、国民的ヒット商品だったタカラ(現・タカラトミー)のダッコちゃんも姿を消した。1990年末には、『ジャングル大帝』などに目を付けられた手塚プロが、『手塚治虫漫画全集』(当時全300巻)をはじめとする、1コマでも黒人が描かれている作品を収録した出版を一時停止している。
さらに、黒人が「カルピス」を飲むロゴマークもターゲットのひとつだった。
1992年刊行の『焼かれた「ちびくろサンボ」』(杉尾敏明・棚橋美代子共著、青木書店)の第2章「『表現の自由』論考」は特に必読だ。
カルピスが黒人マークを使い始めたのは1923年。当時、第1次世界大戦の影響で、仕事をなくした欧州の絵描きたちが多くいた。
そこで、カルピス社は国際懸賞ポスター展を開催。
3位を受賞したドイツ人デザイナーこそが、黒人マークの作者だ。
シルクハットと燕尾服の黒人が美味しそうにカルピスを飲むデザインのどこが「黒人差別」なのか。
LGBTなど「差別」が改めて注目される今こそ、投票でもしてみたらどうだろうか。
(月刊「紙の爆弾」2024年1月号より。最新号の情報はこちら→https://kaminobakudan.com/)
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日本では数少ないパロディスト(風刺アーティスト)の一人。小泉政権の自民党(2005年参議院選)ポスターを茶化したことに対して安倍晋三幹事長(当時)から内容証明付きの「通告書」が送付され、恫喝を受けた。以後、安倍政権の言論弾圧は目に余るものがあることは周知の通り。風刺による権力批判の手を緩めずパロディの毒饅頭を作り続ける意志は固い。