アメリカ発祥のドーピング「技術」、 ドーピングと〝情報戦〞の歴史

青山みつお

・冬季北京五輪のドーピング騒動

北京冬季五輪で大きな話題となったのが、ロシアの15歳、女子フィギュアスケートのカミラ・ワリエワのドーピング疑惑だった。

March 20, 2022: Beijing; Taikuli Shopping Center in Beijing featuring large video screen with Olympic Gold Medalist Eileen Gu, as shoppers throng the plaza.

 

もともとロシアは前々回のソチ大会でのドーピング疑惑をきっかけに、国ではなくROC(ロシアオリンピック委員会)として個人参加しているが、今回の問題で、“不正国”の印象が一層強くなった。その後、ウクライナに対する軍事行動が始まったため、印象悪化はなおさらである。

西側諸国のメディアはロシア非難に偏っているが、オリンピックの金メダル競争が国威発揚に利用されてきた歴史や、ドーピング技術の進化を顧みれば、これはロシアだけの問題ではない。

さらに言えば、ドーピング問題におけるロシア批判の報道には、アメリカによるロシアの孤立化を目論んだ情報戦でもあった。

そこで、ドーピング問題について、歴史を振り返って検証してみよう。

スポーツにおける不正は、古代ギリシャのオリンピア競技でも行なわれていたという。記録によれば、古代オリンピックにも、不正した競技者への罰金や懲罰があり、発覚するとオリンピュア競技場に「ザーネス」という、不正を戒める神像が建てられた。

だが、名誉や賞金欲しさの不正行為や審判の買収は後を絶たなかった。暴君で知られたローマ皇帝・ネロは、自ら競技に参加して7種目で栄冠を勝ち取ったとされるが、競技に敗れても優勝扱いにさせていたという。

Longshot of the modern Olympic (aka Panathenaic) Stadium in the center of Athens, Greece. It was rebuilt for the 1st modern Olympic games in 1896, but the site was used as an athletic field since 330 BC.

 

1896年にフランスのクーベルタン男爵の提唱で実現した近代五輪も、会を重ねるごとに国威発揚の場となり、それに伴い不正行為が蔓延した。

Athens, Attica / Greece – June 5, 2010: Temple of Olympian Zeus with man taking a picture

 

アメリカで開催された第3回セントルイス大会(1904年)は、全96競技中、78競技でアメリカが金メダルを獲得。19世紀の覇権国・大英帝国から新たな覇権国になろうとする米国にとっては、絶好の国威発揚の場になった。

記録的な猛暑で行なわれたマラソン競技では、フレッド・ローツがコース途中で自動車に乗り、ゴール手前から走って優勝した。ローツの“キセル乗車”は発覚し、優勝を取り消されたが、代わりに優勝したトーマス・ヒックスも興奮剤のストリキニーネを服用していた。

記録に残るドーピングで優勝した最初のオリンピック競技者で、まだ薬物の禁止規定がない時代だったため、ヒックスの優勝は公式記録として認定されている。

・「俺はハメられた」ベン・ジョンソンの嘆き

ドーピングが一般に知られるようになったのは、1988年ソウル大会陸上男子短距離100メートル決勝で、1位でゴールしたカナダのベン・ジョンソンが、ドーピング検査で失格となった時からだ。

84年、地元開催のロス大会で4冠を達成し、100㍍でも2連覇が有力視されたカール・ルイスと人類最速を決める“世紀の対決”として大会最大の注目を集めていた。

9秒79という驚異的な世界新記録で優勝した3日後に失格とされたジョンソンは、「自分は陰謀によってハメられた」と抗議している。2003年に米オリンピック委員会のディレクターだった医師が「ベン・ジョンソンの失格によって金メダルを獲得したカール・ルイスからも、ソウル五輪前の代表選考会の薬物検査で陽性反応が検出されていた」と告発したからだ。

ジョンソンは「俺はスケープ・ゴートにされた。たしかに薬物を使用していたが、当時は多くの選手がやっていた。陽性反応が出た筋肉増強剤スタノゾロールを使ったことはなかった。検査前にルイスと親しかったアメリカ人選手とビールを飲み、その時薬物を盛られたのだ。俺に薬物を盛ったアメリカ人は、検査の前に、ステロイドを俺の飲んだビールに入れたと2004年に認めている」と主張する。

一方、カール・ルイスは、件の選手が検査前に控え室でベン・ジョンソンと一緒にビールを飲んでいるのを見かけたと言いつつ、「自分はベンの陽性反応とは全く無関係だ」と関与を否定している。代表選考会で陽性反応が出た件については、風邪薬の成分によるものであり故意ではないと主張した。

当時の報道により、天才カール・ルイスに勝つために不正行為に手を染めたベン・ジョンソンと、正々堂々と戦い、オリンピック四大会で九つの金メダルを獲得したルイスというイメージが広められたが、そんな人々の認識も、いささか怪しくなっているのである。

1980年代は、ソ連・東欧の選手が、次々とオリンピック記録を塗り替えており、ドーピングが疑われていた。ジョンソンにドーピングを勧めたコーチも、1985年の陸上ワールドカップで、東ドイツの女子選手が圧倒的な記録で優勝したのを見て、ドーピングを決意したと語っている。

とはいえ、見逃せないのは、科学的なドーピングの技術は、アメリカで最初に開発されたということだ。

・不問になったアメリカ選手の疑惑

1950年代にアメリカの重量挙げ選手団の専属医が、筋肉増強剤・アナボリック・ステロイドの合成に成功した。筋肉増強作用のある男性ホルモンの一種であるステロイド・ホルモンと同じ効果があり、経口摂取が可能という画期的な薬品だった。

だが、新しいドーピング技術は、ソ連・東欧圏でも取り入れられる。選手の健康や、子孫への影響、選手本人の同意さえ必要とせず、国ぐるみでドーピングができる独裁的な国家の方が、ドーピングによる成果が大きかった。この流れを食い止めるには、スケープ・ゴートが必要だったのだ。

しかし、ソ連や共産圏の有名選手をドーピングで摘発して失格にすることははばかられた。1985年に共産党書記長に就任したゴルバチョフは、1979年からアフガニスタンに駐留するソ連軍の撤退を表明。レーガン米大統領と首脳会談を行ない、核軍縮やペレストロイカ、グラスノスチを推進し、西側諸国の評判が良かった。

しかし、だからといって、アメリカ選手を失格にするわけにもいかない。世界アンチ・ドーピング機構(WADA)が設立された1999年以前は、検査で陽性になっても国威発揚となる人気選手は見逃されていた。

カール・ルイスの陽性反応も不問になった。ソウル五輪陸上女子短距離100・200メートルで優勝したフローレンス・ジョイナーにも疑惑が囁かれていたが、アメリカで人気のルイスやジョイナーは、スケープ・ゴートには出来ない。そこでカナダのベン・ジョンソンが選ばれたのだと考えるのは、ありえないことではなかった。

ジョンソンは、自分がハメられたのは、ライバルのルイスや、そのスポンサーであるスポーツ用品メーカーの陰謀と信じている。しかし、ジョンソンの主張する陰謀が実際にあったのだとしても、計画したのは国家レベルの組織だった可能性もある。

 

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青山みつお 青山みつお

海外メディア勤務を経て、フリーライターとして活躍中。

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