マッド・アマノの裏から世界を見てみよう 最終回 むかし、みんな軍国少年だった

マッド・アマノ

日米合作映画「アメリカが怯えた日」

ウクライナやパレスチナの戦争が長期化している。国内では正月早々から能登半島地震、羽田空港の衝突事故など不穏な事態が続く。
政治も自民党派閥の解体に、芸能では松本人志への文春砲だ。

この連載も今回が最終回。1979年を経た私の「戦争の記憶」について、ここで触れようと思う。
ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し第2次世界大戦の引き金となった1939(昭和14)年の夏に、私は現在の東京都北区(旧滝野川区)で生まれた。
2年後の12月8日には日本も真珠湾奇襲攻撃を皮切りに米英に宣戦布告、戦争は拡大した。

日本国内への空襲は66都市に及び、40万人もの市民が命を奪われた。
1942年4月、空母から中型爆撃機B25を発進させたドーリットル隊によるものが最初で、航続距離が長く、大量の爆弾を搭載できるB29爆撃機が開発されると、1944年6月には、中国・成都を発進基地に、はるばる北九州の八幡製鉄所を襲っている。
同年8月、サイパン・テニアン・グアムなどマリアナ諸島を制圧した米軍は、そこを拠点に長距離爆撃を始めた。B29の航続距離は5230キロ。北海道を除く日本全土が爆撃可能範囲に入った。

一方、日本海軍は潜水艦による攻撃を米・カナダ・メキシコの西海岸で行なった。
1942年2月、伊17乙型大型潜水艦によるカリフォルニア州の石油製油所への砲撃成功は、本土を攻撃されたことがない米政府や国民に大きな衝撃を与えた。
当時の大統領ルーズベルトは日本軍の本土上陸に備えた作戦立案を指示。同時に日系米人の強制収容を行なうことになったとされる。

陸軍中尉だった叔父から戦後に聞いた話では、日本は風船爆弾を開発し、米本土に無差別攻撃を行なったという。
ただ、それらの詳細は戦後のGHQによる言論統制で、真実がほとんど公表されないまま今日に至っている。
戦後80年に向けて『アメリカが怯えた日』という映画を日米合作で製作できないものだろうか。日本の属国根性を打ち破る劇薬になるのでは? 今、私はコメディ仕立てのシナリオとパロディ作品の制作に取りかかっている。
以前、ロサンゼルスの20世紀FOX(当時)の事務所で会ったスピルバーグ監督に連絡をとってみようかと考えているところだ。

 

戦争の記憶

子どもの頃のアルバムを見ると、親父が撮った私の幼少の頃の写真が収められている。
戦闘帽をかぶり鉄砲を担ぎ、腰には刀をさしている(1)。
三輪車が大きく見えるくらいだから2歳か3歳ではないか。
黒い軍服を着て鉄砲を担いでいる私は4歳くらいだったと思う(2)。
足元には迷彩色の大砲のおもちゃが見てとれる。
当時は子ども用の戦闘帽や鉄砲、はたまた大砲まで玩具店に売られていたのだ。

戦時中の報道は、日本の戦艦が撃沈されても最小限。敵艦の損害の方を大きく報じていた。
戦争末期には、さすがに政府の嘘に気づいた国民が、皮肉まじりに「大本営発表だ」と日常会話で口にした。
それでも国民は新聞とラジオ(NHK1社)に情報を頼る以外に術がなかった。
東條英機首相の宣戦布告演説を写真入りで掲載した昭和16(1941)年12月9日付の新聞が手元に残っている。
真珠湾攻撃は日増しに生活が苦しくなった国民の溜飲を下げるものだった。
新聞は家の改築で畳を外したときに見つけたものだ。
親父はいつか息子が読む時がくるかもと考えて、畳の下に敷いたのかもしれない。

1945年3月10日未明、私の住む東京をB29が編隊を組んで爆撃した。
中に油の入った焼夷弾は、落下寸前にバラバラになり、周囲一帯を焼き尽くす。
1923年の関東大震災で、現在の墨田区、江東区などの下町は家屋の火災により一晩で10万人もの犠牲者を出した。
当時、親父の両親は両国国技館の近くの本所に住んでおり、陸軍被服本廠跡地の公園に逃げ込むも命を落とし、遺骨さえ見つからなかった。
父55歳、母46歳の若さだった。

当時20歳の親父は横浜で罹災。電車の線路伝いに両国まで歩いて向かうと、隅田川にかかる言問橋など多くの橋が、両側から逃げ惑う人々の遺体で山なりだったという。
親父はそれ以来、「世の中、神も仏もあったもんじゃない」との境地に至ったと口にしていた。
東京大空襲の犠牲者も10万人。奇しくも関東大震災とほぼ同数だ。

話を戻すと45年3月、母と5歳の私は親戚の住む栃木・小山の八百屋の2階に疎開した。
親父は建築会社の社員として長野県諏訪に赴任していた。
田舎生活を淡々と味わっていた私は、終戦のほぼ1カ月前、恐怖体験を全身で受けることになる。
母と2人で昼食をとった直後、空からバリバリバリという耳をつんざくような音がしたと思ったら、家の前の国道が一瞬暗くなった。母とともに押入れの布団の中に首を突っ込んだ。
まさに頭隠して尻隠さず。音の主は米軍戦闘機グラマンのエンジンと機銃掃射の発射音だった。敵機が過ぎ去ったあと母と顔を見合わせ、思わず笑ってしまった。笑うしかなかったのだ。

小山市の歴史をまとめたウェブサイトで、あの日、駅前で3人が機銃掃射で亡くなったことを知った。グラマンの銃撃音は今でもはっきり覚えている。
終戦間もなく東京の家に戻り、平穏な日常の中で小学1年生の生活が始まった。戦時中、父が一人で掘った半坪ほどの防空壕はそのまま残った。

 

軍国少年予備軍からアメリカ大好き少年へ

本多勝一さんや和田勉さんら著名人22人が綴った2004年発行の『むかし、みんな軍国少年だった』(G.B.)の冒頭にはこうある。
「本書は、かつて日本本土が戦火にさらされた時代に、一生懸命に生きた22人の少年たちの記録である」。
同書の寄稿者に限らず、当時の「軍国少年」には、傑出した人物が多いように思う。
1935年生まれ、終戦時に国民学校4年生の筑紫哲也さんは推薦文にこう書いた。
「大人は子どもという純白のキャンパスにどんな絵を描くこともできる。
『軍国少年』だったことですべてが始まっているのが私たちの世代だ。
(中略)
自分で描いたつもりの絵が必ずしもそうでなかったことをのちに知って、その後の生きかた、考えかたが用心深くなったことも確かだ」

また、34年生まれの井上ひさしさんは、パロディ裁判で私を支援してくれた1人だ。
彼のエピソードで傑作なのが、抗議電話をかけてきた右翼男性に対し「あなたは歴代天皇の名前が言えるのか、自分は言える」とやりこめた逸話だ。
1933年生まれの永六輔さんも、私の前で淀みなく暗唱してみせたことがあった。
私の手元にある黄ばんだ教科書『初等科國史・上』は、昭和19(44)年に発行されたもの。
まず「神勅(しんちょく)」というページで始まる。
「豊葦原の千五百秋(ちいはあき)の瑞穂の國は是れ吾が子孫の王(きみ)たるべき地(くに)なり……」。意味がおわかりだろうか?
その次のページに「御歴代表(天皇124代)」が列記されていた。
これを小学・中学時代の井上さんや永さんは暗誦させられたのだろう。

1934年生まれの大橋巨泉さんが司会する日本テレビ系の「11PM」に出演した時、デビュー間もないタモリが登場して、麻雀卓を囲む韓国人・中国人がデタラメな韓国語と中国語を話すネタを披露していた。
今なら放送禁止に違いない。
どデカいネクタイを締めたタモリは緊張していたようだった。
2001年の参院選で当選した巨泉さんは、わずか半年後に議員辞職。
その後は「野にいて言いたいことを言う」との立場を貫いた。

最後まで憂慮していたのは日本の民主主義の行方について。戦争で、信じていたものが一夜にして価値観が変わるのを経験したことが原点だった。
最後にもう一度、私の少年時代の写真(3)を見てほしい。
自作のカウボーイハットにピストルを構え、横には「アリゾナ」と書かれた道標が立っている。
たしか9歳だったと思う。ハリウッドの西部劇が映画館で上映され、よく観に行ったことを覚えている。
「軍国少年予備軍」も見事に「アメリカ大好き少年」に変身していた。
機銃掃射の恐怖などどこ吹く風となった。
ご愛読ありがとうございました。
読者のみなさん、いつかまたお会いしましょう。

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2024.03.01
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日本では数少ないパロディスト(風刺アーティスト)の一人。小泉政権の自民党(2005年参議院選)ポスターを茶化したことに対して安倍晋三幹事長(当時)から内容証明付きの「通告書」が送付され、恫喝を受けた。以後、安倍政権の言論弾圧は目に余るものがあることは周知の通り。風刺による権力批判の手を緩めずパロディの毒饅頭を作り続ける意志は固い。

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