【連載】知られざる地政学(塩原俊彦)

「知られざる地政学」連載(28) ロシア残留か撤退か:企業の選択を考える(上)

塩原俊彦

 

このサイトにおいて、「制裁をめぐる補論:『復讐としてのウクライナ戦争』で書き足りなかったこと」〈上〉という記事のなかで、「公的制裁」と「私的制裁」の区別の必要性について論じたことがある。その記事のなかで、イェール大学チームがウクライナへの侵攻が始まって以来、1500社を超す企業の対応を追跡してきた調査サイトを紹介した。2024年3月3日に更新された内容をみると、「1000社を超える企業が、国際的な制裁措置で法的に義務付けられている最低限の範囲を超えて、自主的にロシアでの事業をある程度縮小すると公言している」が、「このリストが最初に発表された2022年2月28日の週には、まだ数十社しか撤退を表明していなかった。私たちのリストが、その後1000社近くを撤退に向かわせるきっかけとなったことに、身の引き締まる思いである」と書いている。

このサイトは、ロシアで事業を展開していた民間企業に対してロシアから撤退するよう促す役割を果たしてきたことになる。撤退しない企業名をリスト化し、そうした企業の製品購入をボイコットするよう促すことで、ロシアから撤退するよう脅迫するわけである。

同じようなサイトとして、「Stop Doing Business with Russia」というサイトがある。キーウ・スクール・オブ・エコノミクス(KSE)が運営しており、ロシア進出企業をロシアから撤退させることで戦争への資金提供を止めるよう促そうとしている。

 

私的制裁は「野蛮?」

この二つの試みは私的制裁を加えようとしているようにみえる。国家とは直接関係をもたない組織がロシアで事業展開する個別の民間企業活動に干渉し、撤退するよう脅しているのだ。
拙著『復讐としてのウクライナ戦争』で論じたように、キリスト教神学に基づく西洋世界では、刑法による処罰に代替させることで、「野蛮な」私的復讐を禁止してきた。これと同じ文脈でいえば、企業という法人の活動について、海外の法人組織が報復として不買運動を通じて、対象企業法人の特定地域からの撤退を迫るというやり方に疑問符がつく。

もちろん、言論の自由は尊重されなければならない。したがって、こうした企業・組織間の私的制裁を「禁止しろ」と主張するつもりはない。問題は、イェール大学のような胡散臭い活動を無批判に紹介するマスメディアにある。マスメディアのディスインフォメーション(意図的で不正確な情報)によって、何も知らない大衆がだまされる可能性が高いのだ。

紹介した二つのサイトは政治性を帯びている。ゆえに、偏向しており、そもそも信頼する根拠に疑問符がつく。パレスチナ人に対して過剰防衛という名の侵略行為を行っているイスラエル国家に関連して、イスラエルに進出する外国企業の撤退を呼びかける努力をイェール大学はしているのか、と問うてほしい。あえて率直に書けば、アメリカに住むユダヤ系富豪の「私怨」がイェール大学への寄付となり、その政治性を帯びたアピールにつながっているだけではないか。ゆえに、イェール大学はユダヤ人国家イスラエルの行動を批判できないのである。

 

企業活動をめぐる判断基準

ロシアに進出した企業からみると、その責任はさまざまある。

第一に、株主に対する収益の確保・増大といった義務を負っている。

第二に、ロシアで働く従業員に対する雇用の提供や福利厚生、さらにその企業の製品・サービスを購入している顧客への責任も忘れてはならない。とくに、医薬品の提供に伴う責任は重い。

第三に、ロシアでの納税資金がウクライナ戦争継続につながりかねないリスクも考慮する必要がある。ただし、戦争の遠因はウクライナ側にもあり、それを支援した米国にもあることを忘れてはならない。

第四に、プーチン大統領による許可がなければ撤退できないケースがある。プーチン大統領は2022年8月5日付の大統領令で、金融および燃料・エネルギー分野における特別経済措置として、国益保護を名目に、非友好国に属する個人・企業が2025年12月31日まで、ロシア法人の有価証券、ロシア法人の定款(株式)資本を構成する株式(出資)などを所有・使用・処分する権利の設定・変更・終了などの取引(業務)を行うことが禁止された。要するに、燃料・エネルギー企業と銀行セクターの企業における外国人の株式取引は、大統領の認可がなければできなくなったことになる。なお、2023年には、チェコのJ&T BankaとイタリアのIntesa Sanpaoloのロシア子会社との取引にそのような認可が発行された。前者の資産はLLC「Bureaukrat」によって買収されたが、後者の取引の買い手は公表されていない。同時に、英銀HSBCのロシア部門の取引は、2022年にエクスポバンクとHSBCが資産の購入に関する対応契約を締結したにもかかわらず、認可されず、完了しなかった。

第五に、もし撤退しようとすれば、ロシアの資産がプーチン大統領とその取り巻きの手に渡ってしまう可能性もある。2023年7月16日付大統領令によって、フランスのヨーグルトメーカー、ダノンの現地法人(ダノン・ロシア)と、デンマークのカールスバーグ・グループの出資するロシアのビールメーカー、バルチカの株式各100%が連邦国家資産管理庁の管理のもとに一方的に移された。
実は、ダノンは2022年10月に乳製品とハーブ飲料事業の経営権を譲渡すると発表していた。また、カールスバーグ・グループは2023年6月末、バルチカの投資家探しを完了し、将来の資産所有者と契約を結んだと発表していた。それにもかかわらず、プーチンはそれらの株式を強制的に連邦国家資産管理庁の「一時的外部管理」のもとに置いたのである。

ダノン・ロシアは、ロシアに18の乳製品工場をもち、乳製品の市場シェアは約9%で、1位を分け合うヴィム・ビル・ダン(ペプシコ)に迫る。その社長に任命されたのは、チェチェン共和国のトップ、ラムザン・カディロフの甥、ヤクブ・ザクリエフであった。ダノンは7億ユーロ(7億5800万ドル)の損失を計上した。

2024年2月21日付FTによると、ダノンはミンティマー・ミンガゾフが所有するロシアの乳製品会社ヴァミン・タタールスタンに、ブランド名を変更したライフ&ニュートリションを売却しようとしている。ミンガゾフは、クレムリンがザクリエフにライフ&ニュートリション(ダノン・ロシア)の経営権を渡した直後に、ライフ&ニュートリションの取締役に任命されていた。ヴァミン・タタールスタンが所有する新しく設立された会社の取締役であるアイラット・ムカマデエフは、ダノン・ロシア事業の経営権を取得するために177億ルーブル(1億9150万ドル)を支払うことに合意したとのべた。この取引価格はこの事業の市場価値に対して56%のディスカウントに相当するという。

ただ、3月13日付大統領令で、プーチンは前述の大統領令で決めた、ダノン・ロシア株の連邦国家資産管理庁への一時的管理下に移すことを取り消した。この背後に何があるかは不明だが、親会社であるダノンと直接、ロシアにおける事業の将来とその開発・経営への参加レベルに関して、いくつかの合意に達した可能性がある、との見方がある。

バルチカはロシア国内に8工場を有し、市場シェアは3割近くにのぼる。その社長に任命されたのは、タイムラズ・ボロエフだ。プーチンの側近であるユーリ・コヴァリチュークやアルカディ・ローテンベルグと親交があるとされている。プーチンとローテンベルグとともに、サンクトペテルブルクの柔道クラブの経営メンバーでもある。ボロエフはまた、ユーリ・コヴァルチュークと共同事業を行っている。ボロエフはゲレンドシク空港の株式10%を所有し、別の株式40%はコヴァルチュークのロシア銀行に属している。カールスバーグは14億ドルの評価減を余儀なくされた。

2023年12月17日付のNYT紙は、同紙の財務報告書の分析によれば、「撤退を発表した西側企業は、開戦以来1030億ドル以上の損失を申告している」と書いている。加えて、プーチンは、撤退する企業に増え続ける税金を課し、ロシアの軍資金のために2022年に「少なくとも12億5000万ドルを生み出した」としている。

もちろん、企業はそれぞれの国家によって守られている以上、企業だけの都合で、ロシアにおける活動の継続などを決められるわけではない。本社所在地が属す国の意向も斟酌しなければならないし、ダノンやカールスバーグの例にみられるように、ロシア政府による悪意に満ちた命令に屈しなければならないこともある

2022年12月、ロシア財務省は、非居住者企業がロシアで登記された企業の株式や参加権益を売却する際、売却時の割引は市場価格の50%以上でなければならず、取引額の10%は連邦予算に移されなければならないとする制度を導入した。これも、撤退するかどうかの判断を難しくさせている。しかも、たとえ企業がロシアから撤退すると決めても、簡単に実現できない現実がある。

 

現状はどうなっているのか?

前述したKSEは2024年2月8日付で、ロシア進出企業の現状について発表した。それによると、2024年2月4日現在、356の国際企業(KSEデータベースの総エントリー数の9.6%、2022年にロシアで収益を上げた企業の27.8%)がロシアでの事業を完全に停止している。2021年時点で、これらの企業の従業員数は50万人を超えていた。1210社(全体の32.7%)が事業を縮小し、ロシアから撤退する意向を表明した。一方、KSEがモニターしている企業のうち1594社(全体の43%)は、ロシア市場から撤退するつもりはなく、そのまま事業を継続している。別の544社(全体の14.7%)は新規投資を中断し、待機を続けている。

さらに、KSEは、最終的にロシア市場から撤退した国際企業8社を特定したという。ネットワークカメラや監視システムを製造・販売するスウェーデンのアクシスコミュニケーションズ、キプロス最大の銀行・金融グループであるバンク・オブ・キプロス、機関投資家向け仲介サービスを提供するスイスのBanque Cramer & Cie SA、アメリカの多国籍石油・ガス企業であるエクソン・モービル、ポーランドの鉱業機械メーカーであるファムール、フランスの自動車部品メーカーであるフォルシア、ヨーロッパでトップ10に入る輸送・物流グループであるGEFCOグループ、漁業会社であるロイヤル・グリーンランドだ。

「知られざる地政学」連載(28) ロシア残留か撤退か:企業の選択を考える(下)に続く

 

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塩原俊彦 塩原俊彦

1956年生まれ。一橋大学大学院経済学研究科修士課程修了。学術博士。評論家。 著書:(2023年9~10月に社会評論社から『知られざる地政学』(上下巻)を刊行する) 【ウクライナ】 『ウクライナ戦争をどうみるか』(花伝社、2023)、『復讐としてのウクライナ戦争』(社会評論社、2022)『ウクライナ3.0』(同、2022)、『ウクライナ2.0』(同、2015)、『ウクライナ・ゲート』(同、2014) 【ロシア】 『プーチン3.0』(社会評論社、2022)、『プーチン露大統領とその仲間たち』(同、2016)、『プーチン2.0』(東洋書店、2012)、『「軍事大国」ロシアの虚実』(岩波書店、2009)、『ネオ KGB 帝国:ロシアの闇に迫る』(東洋書店、2008)、『ロシア経済の真実』(東洋経済新報社、2005)、『現代ロシアの経済構造』(慶應義塾大学出版会、2004)、『ロシアの軍需産業』(岩波新書、2003)などがある。 【エネルギー】 『核なき世界論』(東洋書店、2010)、『パイプラインの政治経済学』(法政大学出版局、2007)などがある。 【権力】 『なぜ「官僚」は腐敗するのか』(潮出版社、2018)、『官僚の世界史:腐敗の構造』(社会評論社、2016)、『民意と政治の断絶はなぜ起きた:官僚支配の民主主義』(ポプラ社、2016)、Anti-Corruption Policies(Maruzen Planet、2013)などがある。 【サイバー空間】 『サイバー空間における覇権争奪:個人・国家・産業・法規制のゆくえ』(社会評論社、2019)がある。

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