【連載】知られざる地政学(塩原俊彦)

「知られざる地政学」連載(33)言語と性差をめぐる地政学(上)

塩原俊彦

 

2021年7月15日付の「論座」において、「言語と性差をめぐる世界の潮流」という拙稿を公表した。「ジェンダーニュートラルな(性中立的)言語が世界でどのように発展しているかのガイド」という興味深い記事を紹介しながら、LGBT運動などによって言語がどのような影響を受けているかを論じたものである。

たとえば、2015年、スウェーデンは国の公式辞書に、男性の代名詞“han”と女性の代名詞“hon”に代わるものとして言語学者が推し進めていた、性別を問わない代名詞“hen”を追加した、という話を紹介した。この「ヘン」という言葉は2012年に誕生した。「「彼」でも「彼女」でもない新しい言葉のパワー ジェンダーニュートラルな代名詞が社会を変える」という記事によれば、2012年に、イェスペル・ルンドクイストという地元の作家が子ども向けの絵本のなかで、主人公を指すのに用いたのが「ヘン」であった。「この単語は、お隣のフィンランドで使われている、男女の区別がない三人称の代名詞“hän”から借用したものだ」とされている。ある新聞は「ヘン」の使用を禁止したが、逆に、その使用を義務づけた雑誌もあった。スウェーデン語に関する政策について、実質的な最終判断をするスウェーデンの国語審議会は、「ヘン」の採用に反対の立場を示したが、絵本の出版から2年後、審議会はそれを翻すに至ったのである。

今回は、この視角の延長線上で、男性、女性、中性という性別が含まれた構文をもつ言語の最近の変化について分析してみたい。言語は各国の社会事情によって確実に変化しており、その変化を知れば、世界全体の潮流の変化についても理解できる。それは、地球全体の支配・被支配の関係を考える地政学にとっても重要な視点を提供してくれる。

ヨーロッパ言語の潮流

ブロッソー・シルヴィ著「セクシズムと言語。フランス語の例と現在の議論」によると、「ヨーロッパ言語には、概ね名詞の性の区別がある」。フランス語の基になったラテン語では、性が男性・女性・中性の三つに分かれていたが、現代のロマンス諸語(イタリア語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、ルーマニア語など)では中性が消失したので、名詞は、男性名詞か女性名詞のいずれかとなっている(ラテン語系の言語では男性形はラテン語の中性形を吸収した結果、男性形が一般や普遍性を表現するようになり、それが女性蔑視につながった)。

フランスの場合、「17 世紀からは学者や機関が男性を優先させるために男性形を使いフランス語に影響を与えた」と、論文は指摘している。その意図は、男性を優位にさせ、男女平等や男女同権に反対することであり、「言語は男性たちの優越を強める手段であった」という。

他方で、ドイツ語やロシア語はともに、男性・女性・中性の三つの名詞形をもつ。ドイツ語もロシア語も、「中性はいくつかの顕著な例外を除いて、通常、人には適用されなかったが、それが変わりつつある」とされている。その典型は、「性別に関係のない用語を優先する」というやり方だ。しかし、ロシア語の場合、こうした傾向とは違い動きがみられる。

ロシア語のいま

2023年11月30日、ロシア最高裁判所は「LGBT運動」を過激派組織と認定し、ロシア国内での活動を禁止するよう求めた法務省の訴えを支持した。それ以前から、ロシアでは、男性優位の家父長的な社会への傾斜が徐々に進んでいた。2013年6月11日、ロシア下院は未成年者への同性愛「宣伝」の配布を禁止する法案を全会一致で承認した。同法は2013年7月2日に施行された。ゲイ・プライド・パレードを開催したり、同性愛者の権利を擁護したり、同性愛者と異性愛者のカップルの平等な扱いを支持する発言をしたりすると罰金が科せられるようになった。同法は2022年になって、未成年者だけでなく、国民のすべてのカテゴリーにおいて、非伝統的な家族観のプロパガンダを禁止することを可能にするために改正された。2022年12月、「LGBTプロパガンダ」を全面的に禁止する法律が施行されたのである。

こうした社会的雰囲気の変化にともなって、いま、男らしさを強調する男性形の復権が意図的にはかられているという指摘がある。ロシアでは、一般に、クィア・セクシュアリティ(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの性的特質)は西洋やヨーロッパの堕落とみなされてきた。その結果、政治的には、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー(LGBT)の権利は、ロシアの国家的価値を破壊しようとする外部アクターによる、外国的、不道徳、危険な干渉と考えられている(論文「ロシアのLGBTアクティビズムと性的市民権の記憶政治学」を参照)。こうした政治的な喧伝は、LGBTの人々を排除し、LGBTの疎外、交差的不平等、不正義を強化している。同時に、ロシアのLGBT活動家たちは、このような排除的なロシアの国民性やアイデンティティに抵抗する努力をつづけてきた。

だが、前述した2023年の最高裁判決によって、女性をよりよく表現するためにロシア語の特定の用語を女性化する運動が妨げられつつある。たとえば、ロシア語で男子学生は「студент」、女子学生は「студентка」と表現されるが、その複数形はそれぞれ「студенты」、「студентки」となる。ただ、「студентки」の使用には違和感をもつロシア人が多い。だからこそ、あえてこの表現を使うことで、「ジェンダー」問題に敏感になってほしいという「フェミニスト」が存在した。しかし、いまのロシアでは、そうした試み自体が糾弾対象となりかねないムードが漂っている。

「知られざる地政学」連載(33)言語と性差をめぐる地政学(下)に続く

 

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塩原俊彦 塩原俊彦

1956年生まれ。一橋大学大学院経済学研究科修士課程修了。学術博士。評論家。一連のウクライナ関連書籍によって2024年度「岡倉天心記念賞」を受賞。 著書:(2024年6月に社会評論社から『帝国主義アメリカの野望:リベラルデモクラシーの仮面を剥ぐ』を刊行) 【ウクライナ】 『ウクライナ戦争をどうみるか』(花伝社、2023)、『復讐としてのウクライナ戦争』(社会評論社、2022)『ウクライナ3.0』(同、2022)、『ウクライナ2.0』(同、2015)、『ウクライナ・ゲート』(同、2014) 【ロシア】 『プーチン3.0』(社会評論社、2022)、『プーチン露大統領とその仲間たち』(同、2016)、『プーチン2.0』(東洋書店、2012)、『「軍事大国」ロシアの虚実』(岩波書店、2009)、『ネオ KGB 帝国:ロシアの闇に迫る』(東洋書店、2008)、『ロシア経済の真実』(東洋経済新報社、2005)、『現代ロシアの経済構造』(慶應義塾大学出版会、2004)、『ロシアの軍需産業』(岩波新書、2003)などがある。 【エネルギー】 『核なき世界論』(東洋書店、2010)、『パイプラインの政治経済学』(法政大学出版局、2007)などがある。 【権力】 『なぜ「官僚」は腐敗するのか』(潮出版社、2018)、『官僚の世界史:腐敗の構造』(社会評論社、2016)、『民意と政治の断絶はなぜ起きた:官僚支配の民主主義』(ポプラ社、2016)、Anti-Corruption Policies(Maruzen Planet、2013)などがある。 【サイバー空間】 『サイバー空間における覇権争奪:個人・国家・産業・法規制のゆくえ』(社会評論社、2019)がある。 【地政学】 『知られざる地政学』〈上下巻〉(社会評論社、2023)がある。

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