編集後記──終わらない占領と植民地主義との決別(前)
安保・基地問題付言するならば、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効した後も日本が「半独立国家」であること、つまり米軍の占領下にあり続けていることを証明する出来事はこの砂川事件だけではありません。
1956年10月19日にモスクワで当時の鳩山一郎内閣は日ソ共同宣言に調印して日ソ国交回復をなしとげたものの、北方領土問題のために日ソ平和条約を締結することはできませんでした。それは北方領土をめぐる日ソ交渉は、当初日本側が国後島と択捉島を含めた4島返還を主張して交渉は膠着状態となったものの、ソ連側が8月初めに歯舞、色丹の引き渡しを申し入れ、2島返還で折り合いがつきそうになったのです。
しかしその後、日本側が再び4島返還の立場に戻ったために交渉が決裂したという経緯がありました。実はその背後に、いわゆる「ダレスの恫喝」があったことが明らかになっています。それは、1956年8月19日に重光外相は、在ロンドンの米国大使館で国務長官のジョン・フォスター・ダレスから、「もし日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄を米国の領土とする」(『増補日ソ国交回復秘録』松本俊一著、佐藤優解説、朝日新聞出版)と圧力をかけられたという事実です。米国は、北方領土問題が進展して日ソが急接近することを強く警戒していたのです。
このことをロシアのプーチン大統領は、北方領土問題に関して、日本が1956年の「日ソ共同宣言」で4島返還を主張した背景にはアメリカからの圧力、いわゆる「ダレスの恫喝」があったという見方を示しています。プーチン大統領は、「1956(昭和31)年に、ソ連と日本はこの問題の解決に向けて歩み寄っていき、『56年宣言』(日ソ共同宣言)を調印し、批准しました。この歴史的事実は皆さん知っていることですが、このとき、この地域に関心を持つ米国の当時のダレス国務長官が日本を脅迫したわけです。
もし日本が米国の利益を損なうようなことをすれば、沖縄は完全に米国の一部となるという趣旨のことを言ったわけです」と語っています(日露首脳会談の後、安倍首相と首相公邸で開いた2016年12月16日の共同記者会見、「産経ニュース」、2016年12月16日)。
また元駐レバノン大使の天木直人氏も、「北方領土はとっくに返って来たはずなのに、米国が反対したから日本の方からあきらめたのだ。……1956年の日ソ共同宣言をめぐる交渉の過程で、なんとソ連は北方2島を、米軍基地を置かない前提で、日本に返還する事を決めていたというのだ。それが書かれているソ連の極秘文書が見つかったというのだ。ダレスの恫喝(日本が北方領土返還を受け入れるなら沖縄は返さないという恫喝)に屈したのだ」と指摘しています(天木直人のブログ2019年2月7日「ダレスの恫喝」が北方領土返還をつぶした動かぬ証拠)。
以上、これまで本書の中核部分をなす対米従属論とその実態である戦後の語られない日米戦後史について述べてきました。
※「編集後記──終わらない占領と植民地主義との決別(後)」は6月7日に掲載します。
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独立言論フォーラム・代表理事、ISF編集長。1954年北九州市小倉生まれ。元鹿児島大学教員、東アジア共同体・沖縄(琉球)研究会共同代表。九州大学博士課程在学中に旧ユーゴスラヴィアのベオグラード大学に留学。主な著作は、共著『誰がこの国を動かしているのか』『核の戦後史』『もう一つの日米戦後史』、共編著『20人の識者がみた「小沢事件」の真実』『昭和・平成 戦後政治の謀略史」『沖縄自立と東アジア共同体』『終わらない占領』『終わらない占領との決別』他。