【特集】砂川闘争の過去と現在

砂川から~父宮岡政雄の砂川闘争

福島京子

・父宮岡政雄の砂川闘争

1955年5月4日、父宮岡政雄は、基地が拡張されるという話を伝え聞き、その晩関係者の集会が開かれるとの連絡を突然受けました。

宮岡政雄氏

 

この時まず考えたことは、「他人がどの様な考えを持とうと、自分自身はこの計画に反対する。たとえ結果として、土地が無償で取り上げられても、先祖伝来の土地を守るために努力して失った場合には、350年も守られてきた私の祖先にも、申し訳が立つ。世の中には努力を怠って土地や屋敷を失っていく人もある。失うまいと努力をした結果、失わなければならなかったということなら、祖先も認めてくれるであろう」。

「次に考えたことは、41年(昭和16年)の日本陸軍が拡張した当時のことであった。土地の取り上げや家の移転を含むこの問題では、全てが個人の運命に関わる問題であって、最終的には、個別の問題である。個別の問題であるから、このことだけは他人にお任せすることは出来ない、と決心した。次に拡張に反対することをどの様に行なっていくかと自分自身に問い詰めたときに、戦後の社会では『国民が主権者である』という原点に立って世論を喚起することで、アメリカの支配である体制に向かい合うことだ、と頭に浮かんできた」(注1)。

このように父は決意し、夜の地域の会合に臨み、その時から父の砂川闘争は、始まりました。

父の砂川闘争の背景には、父のこれまでの生活における三つのことが大きく影響しています。①父の生育歴、②陸軍による土地の接収、③軍隊生活と被災です。

父は父親を亡くし、7歳にして16代目の家督を相続することになりました。後見人のもと、まだ分家していなかった叔父家族との同居生活という不自由な生活でした。選択のすべも無く16代目となり、女性差別の中での不自由な生活で、家族制度への疑問を抱きました。

叔父に農業を引き継ぎ自分は外に出たいと後見人に相談しましたが「それは出来ない、出て行くのは叔父家族」という答えでした。35年、自らは7割弱の土地と叔父の負債を全て引き受け、厳しい独立生活は始まりました。

一方立川には、軍需工場が作られ、やがて陸軍施設建設への土地の接収が始まりました。46年、関係者は村役場に集められ、軍刀を持った軍人の前で、承諾書に調印し、耕作地の75%を接収されました。父は一番若く、軍部へ何とか出来ないか指導的な人に話しましたが、何を話しても無駄と諭されました。しかし後に、移転補償は有力者たちによって交渉がもたれ、充たされていたことを知りました。軍による土地接収の体験をし、たとえ軍といえども訴えることによって要求は得られるということでした。

一方同じ接収地内でも関係者の立場が多様化しているので、補償要求で統一行動は困難だと感じました。移転補償については複雑な権利が多様です。このことは、砂川闘争を起こすときに大きな教訓となりました。折衝関係者の自主的主体が、人間の生活には、常に中心に置かれなければならない。この経験が、後に起こる基地反対闘争の住民の歩調をそろえての抵抗には、無条件で絶対反対以外にはないことを父は身をもって感じさせられたのでした。

同居していた祖父の弟は、長男は徴兵制を免除されたことから、新籍を作り独身で、新聞を精読する事が日課の自由な生活を送っていました。父はこの人の影響を多く受けていました。常に仕事に追われ生活に追われて忙しすぎると注意されることがあり、その時は理解できませんでしたが、後に物事を考えること、見つめることの時間の大切さを言ったものと納得できたのでした。

44年に軍隊生活が始まり、一歩出れば敬礼、欠礼があれば体罰、この生活には耐えられなかったようです。初めて皇軍の実態に触れて、軍隊とはこんな所か、これが国を守り戦争する軍隊なのか、これで闘いが勝てるのか、父は、疑問を持たずにいられなかったようです。父が入隊した東部二部隊は、皇居の守衛を主な任務とした部隊でした。入隊当時の数日は、この行進に目が注がれ、この任務は部隊の最大の栄誉として教育されてきました。

44年には臨時召集を受け、10月にフィリピンへ出征しました。3週間の船上生活は、人間の地獄の生活かと思うほどで、魚雷と機雷のすきまを縫っての航海に、見通しのない人間集団。皇居の衛兵勤務の行進と人間地獄の中での輸送兵が第二次世界大戦を闘う日本軍の実体であったことを実感しました。

父は台湾にとどまり、戦況は益々悪くなり、生死を共にした部隊も多くの戦死者を出し、部隊は解散しました。軍隊生活は、大勢の人間が、命令によって自由に操られてきました。何としても生きながらえることを念じたであろう戦友。だが戦争はそれを許さず、1ヶ月後百数十人の戦友が無残な姿で亡くなっていきました。

終戦の知らせは、新竹州楊梅街から離れた海岸の部落で8月17日、小隊長から「敗戦した」と告げられました。次の瞬間「戦争が終われば帰れる。立川の飛行場も返される早く帰って接収された土地をとり返したいと」考えました。一方職業軍人は、全然自立、創造も許されない社会、全て服従の社会、上意下達の命令として行なわれ、この命令にはことの良否も効率も問題では無い、全て消耗の社会であったと父は思っていました。

12月、台湾から鹿児島そして東京までの長旅。乗り合わせた人が、東京の被害の大きかったこと、大きな二つの爆弾が落とされたことを話していることを聞き、足が震えたとのことです。

夜立川に着くと、町には米兵が随所にいて町で初めて会う米兵は恐ろしく、父は立川駅を出たとき初めて敗戦の恐ろしさを感じました。自分が育った家が8月2日、焼夷弾で焼け、1年半ぶりに帰ってきた家は、家ではなく蚕室に蒲生を張り、真冬の夜風を凌いでいました。家族の生活が哀れでなりませんでした。戦地の兵隊だけでは無く留守家族も、一生懸命生き抜いていました。暑い台湾から氷が張り詰める東京の寒さの中で、父の戦後の生活が始まりました。

蚕室を失った父の農業経営は、一変せざるを得ませんでした。

しかし、戦後の新憲法は、父がこれまで望んでいた、基本的人権のもと職業選択の自由や、男女平等、戦争の放棄、が定められ明るい未来をそこに見ることができました。新たな農業経営を必死にやり続けて10年、ようやく軌道に乗り始めたときに起こったのが、米軍基地の拡張だったのです。

父はすぐに六法全書を買い、法律を主権者の立場から解釈することを毎日考えました。そしていくつもの行政訴訟を起こし、14年間にわたる地味な裁判闘争を繰り広げました。そしてそれは常に沖縄に繋がる闘いとして捉えていました。時代の変遷により、米軍立川基地は飛行停止、返還となりましたが、一方で、横田や沖縄の基地を拡充していきました。基地が返還されても、沖縄に、日本に基地がある限り、父の闘いは終わるものではありませんでした。このように父の砂川闘争は単に土地を守るだけの闘いでは決してありませんでした。

父は82年を迎える年末、来年のテーマは「限りない人間性の尊重」に決めたと私に話しました。「これは永遠のテーマだから」と。そしてその年の8月8日、原爆記念日そして敗戦記念日の8月に平和を訴え続けた生涯を終えました。

・私にとっての砂川闘争

砂川闘争は、私が6歳の時に始まりました。学校から帰ると、母に手を引かれ、地元の婦人たちが座り込みをする場所に連れて行かれました。そこはとても和やかな場所でおしゃべりをし、歌を歌い、時に踊る人もいました。しかし激突があった翌日は、庭のあちらこちらに片方だけの靴や警棒まで転がっていました。

この靴の持ち主は、靴を無くしどうしたのだろうかと気の毒に思ったものです。サツマイモ畑は蔓が踏みにじられ、サツマイモが見えていました。辺りにはカメラマンが、撮影する度に残した電球がたくさん転がっていました。これも子どもの私にとって、遊び道具となっていました。

激突の頃は、連日多くの労働者、学生が砂川に支援にやってきました。反対同盟には全国各地の子どもたちからの激励の手紙や絵も届けられ、私は、様々な地域から一生懸命自分のことのように支援してくれる人々に心を打たれました。

やがて条件派となって転居していく家が、一軒また一軒去って行き、まちが壊されて行きました。

畑も住宅地も瞬く間に荒れ地と化し、身の丈を超え育った草原は、私の格好の探検の場となりました。

雑草の中にひときわ目立つチューリップの赤い花を見つけると、かつてそこに人が住んでいたかと思うと心が躍りました。しかし反面、雑草の中で人知れず咲く、主のいなくなったチューリップはその鮮やかな赤色が、一層寂しげに思えました。人々が去った後の草原は、怖くもあり心ときめく探検の場でした。

最終的には、130戸余りの地権者が、最後は23戸となってしまいました。6歳の時の、町並みは、完全に消え去り、地図は未完成なままに6歳の私の記憶の中に封印されました。

支援者であふれていた砂川もやがて、砂川闘争は忘れ去られたかのように地元反対同盟だけとなり、孤立した中での地味な裁判闘争が続けられていました。

反対同盟の人たちは新年会などで度々私の家に集まり、父は相変わらず弁護士さんとの打ち合わせや裁判に出かけ、各地の講演や集会に飛び回っていました。砂川で開催される集会も、かつて砂川から立川駅まで続いたデモ行進も、一組出発すればもう後が無くなりました。

ふたたび砂川に、赤旗がなびくようになり、人々が砂川に集まるようになったのは、立川基地からベトナムの戦地に、飛行機が頻繁に飛び立つようになった頃でした。その頃、オーバーランなどの事故も目立ちました。

基地撤去のこの闘いは、沖縄のB52撤去運動から2.4ゼネストに向かう流れと連帯した闘いでした。

その中で、69年、砂川闘争は14年間の闘いの後、拡張中止が決まり飛行が停止されました。私が生まれて以来初めて、砂川の空から、飛行機の爆音が消えました。しかしその静かな空もすぐに自衛隊移駐により、失われてしまいました。

返還された米軍立川基地は、官公庁、自衛隊基地、国営昭和記念公園等市民が自由に出入りできるものは無くフェンスに囲まれ、市民を拒絶して存在する姿は、私が米軍基地をみていた時とかわらないままです。

私にとっての砂川闘争は、爆音を轟かせて、朝鮮やベトナムの戦地と直結して飛ぶ飛行機の下、拡張予定地に生活すること生きていることそのものが闘いでした。そしてそれは、頭上を自衛隊機が飛び交う今も続いています。

 

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福島京子 福島京子

砂川平和ひろば代表

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