【コリアン・ジェノサイド/裕仁最初の犯罪を問う(4)/前田朗(朝鮮大学校講師)】
社会・経済政治1923年9月2日の戒厳令発布について前々回(本紙1808号)に事実経過を確認したうえで、前回(本紙1811号)は論点を確認しました。今回は摂政裕仁の責任を検討しましょう。
第1に誤った情報に基づいて戒厳令発布の裁可をしたのではないでしょうか。
午前中の閣議で水野内相が「朝鮮人暴動」を根拠に戒厳令を主張しましたが、その根拠がないため閣議は消極的でした。水野内相は事実根拠を示していません。
昼に内田臨時首相と水野内相が摂政裕仁に拝謁した時、水野内相が具体的根拠を示したという歴史資料はありません。
想像に基づいて「朝鮮人暴動」と述べたに過ぎないでしょう。
これに対して摂政裕仁はどのように応答したのか資料からは判明しません。
判明するのは、拝謁後に内田臨時首相が突如として戒厳令に積極的になり、昼の閣議で説得したことです。
具体的情報がないのに、摂政裕仁はまじめに検証することなく水野内相の口車に乗ったのではないでしょうか。
摂政裕仁が水野内相に根拠を示すように求めれば、そこで話は終わったはずです。
第2に戒厳令の文言です。
昼の閣議で決定された戒厳令に朝鮮人暴動の文字が入りました。
内田臨時首相は2度目の拝謁の際に、戒厳令の文言を摂政裕仁に伝えたのでしょうか。
それとも文言は内閣に委ねられたのでしょうか。資料からは事実が判明しません。
前者であれば、摂政裕仁は誤った情報に基づく戒厳令の文言を積極的に容認したことになります。
後者であれば、摂政裕仁は情報の正しさや戒厳令の文言の正当性や適切性にはおよそ関心を持たなかったことになります。
第3に戒厳令下の軍隊の行動です。
横浜では9月1日夕方に朝鮮人暴動のデマが流れ、虐殺が始まっていました。
しかし、その情報が内閣や宮中に届いたという資料はありません。
9月2日の戒厳令発布後に軍隊が朝鮮人虐殺や排除・迫害に出たことが知られています。
それと同時に警察も「朝鮮人暴動」のデマ拡散を始め、民衆はデマに煽動されて朝鮮人虐殺の挙に出ました。
軍隊と警察と民衆による朝鮮人虐殺を助長したのは摂政裕仁ではないでしょうか。
第4に事後対応です。
朝鮮人暴動がなかったことが明らかになった段階で、摂政裕仁は「騙された」ことに気づいたはずです。
軽率にも水野内相の口車に乗せられて、誤情報に基づいて戒厳令を出してしまい、その結果、軍隊と警察と民衆が朝鮮人虐殺をしました。
1923年12月国会でも質問がなされています。
その段階で摂政裕仁は「なぜ誤った情報を伝えたのか」と内閣の責任を追及するべきでした。
誤情報に基づいた戒厳令を撤回する必要がありました。
そうした事実を裏付ける資料はあるでしょうか。
「週刊MDSの2024年03月15日 1813号の転載」
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(一社)独立言論フォーラム・理事。東京造形大学名誉教授、日本民主法律家協会理事、救援連絡センター運営委員。著書『メディアと市民』『旅する平和学』(以上彩流社)『軍隊のない国家』(日本評論社)非国民シリーズ『非国民がやってきた!』『国民を殺す国家』『パロディのパロディ――井上ひさし再入門』(以上耕文社)『ヘイト・スピーチ法研究要綱』『憲法9条再入門』(以上三一書房)『500冊の死刑』(インパクト出版会)等。