能登地震の被災地視察、半年後も残る爪痕と復興への兆し(152-2)
国際(インドへの一時帰国から日本に戻ってきましたので、タイトルはそのままです)
【モハンティ三智江のインドからの帰国記=2024年8月6日】前回、能登半島地震で被災したセク明子さんへのインタビューを試みたが(https://ginzanews.net/?page_id=68161)、その続編の現地(能登町松波)視察編をお届けする。
セク明子さんが亡き祖父から相続した能登町の別宅は、築90年の古い母屋の左手に建て増した棟がある。庭も広いし、危険判定されたのは惜しまれる。
7月6日、セクさん夫妻が男児2人も含めた家族総出で、松波の別宅チェックも兼ねて、宇出津(うしつ、石川県鳳珠郡=ほうすぐん=能登町宇出津)の「あばれ祭」の見学に遠出するのに、同乗させてもらうことになった。
当日、7時に自宅近くのコンビニ駐車場で拾ってもらい、いざ出発。
バンの助手席を提供された私は、被災関連の補足を、運転するセク明子さんに聞きながら、過ごした。
後部座席には、ご主人のセク・ラジさん(東インド・オディシャ州出身のイスラム教徒)、8歳の透快(すかい)君と、6歳の颯(りく)君が、スマホゲームを長い道中のお供に、戯れていた。
車は能登の里山海道(石川県金沢市から同県鳳珠郡穴水町へと至る高速道路)を通っていったが、道路の破損状況には驚かされた。
至る所で、隆起や崩落、陥没を目撃し、半年経った今も震災の爪痕がくっきり残っているのに目を見はらされる。
修復はされているものの、生々しい傷跡を晒し、赤い3角コーンが随所にあって、元の道は崩れて使用不能になっているため、脇に新設された迂回路を回り込んで行かねばならない。
そのため、高速道路と言っても、曲がりくねった道を行くので、運転技術も要るし、スピードは出せないし、時間がかかる。
建て増しされた棟の1階洋間は、壁に油彩画が架かり、座卓が置かれ、震災前の居心地良さそうな雰囲気が窺えた。庭に面したガラス戸から明るい日差しが差し込み、洒落た内部を浮かび上がらせる。
下道から行った方が多少時間はかかっても、運転しやすかったかもしれない。
大地震時の高速道路はこんなにも脆いものかと、運転しない当方ながらも、気づかされた。
背後でセク・ラジさんが、奥さんに細かく指示を出す。セク・ラジさんは国際免許証を所持していないため、日本国内の運転は奥さんにお任せになるが、曲路に苦闘する様が歯がゆいらしい。
いかにひどい地震だったかがありありと窺える修復路を行きながら、時たま両側に迫る山肌の片方が崩れ落ちて赤茶けた地肌が剥き出しになっているのに息を呑み、2時間30分後、道の駅桜峠(石川県鳳珠郡能登町当目)でトイレ休憩となった。
ついでにおにぎりを人数分購入し昼食代わりとしたが、ここのトイレは地震で破損したようで仮設トイレだった。ところが、ここで思いがけず、颯君が段差で転んでしまい、肘や膝を擦りむくアクシデントに見舞われた。痛い痛いと泣きじゃくる颯君を、あと30分くらいで着くからと母親のセク明子さんが必死になだめながら、運転を続けた。
セク明子さん宅(能登町松波)から歩3分、地元に愛される「魚正」鮮魚店のご主人・梶山浩一さん。安価で刺身に捌いてくれるのがありがたい。
飛び切り新鮮な海の幸はほっぺたが落ちそうになる。
10時30分頃、ようやく松波の町中に入った。小さな町ながら、スーパーや銀行(地震で閉鎖)もあり、週末の別宅生活に不自由はなかったと、セク明子さんは語る。途上、通り沿いのドラッグストアでバンドエイドを購入し、応急処置を施された颯君はやっと、泣き止んだ。
車は細い路地に入り、程なく、セク明子さんが亡き祖父から譲り受けた旧家が左手に現れた。
見た目は、ややかしいでいるようにも思えるが、倒壊はなく、きちんと建っている。
道中ぺしゃんこになった家屋を何軒も見た目には、被災したとはいえ、状態はそう悪くないように思えたが、応急危険度判定では赤紙、危険ということになったらしい。
築90年の古家の奥に後年建て増しされたらしい比較的新しい棟があり、それでも60年は経過しているとかで、母屋に比べると、傾いておらず、こちら側は素人目ではまだ使えるように思える。
「家全体で判定するため、こちらだけ残すわけにはいかないんです」
ブルーシートがかかっている横手から誘導されて、中に入ってみた。
全面ガラス戸から明るい日差しの差し込む洋間には、地震のせいでものが散乱しているが、座卓が置かれ、セク明子さんの叔父さんが描いたという油絵が壁を飾り、なかなかいい雰囲気だ。右の隅に階段があって、回り込んで上に通じる設計になっているようだ。
珠洲市にある老舗洋菓子店「メルヘン日進堂」では、フロアの一角に「たすけ愛カフェ」と銘打った場を開設、地元被災民に喜ばれている。
築年数は経っているが、なかなか素敵な洋間で、まだ住めそうなのにもったいないと思ってしまう。
海も近いと言うし、週末の別荘暮らしは自然に恵まれた、かつ生活物資にも不自由のない快適な暮らしだったようで惜しまれる。
セク明子さんによると、子育て上も、自然に親しめる環境は重宝したそうだ。
広い敷地にはゆずの木もあり、過去の一時期能登に住んでいた頃、夫妻が自生したミントなども、茂っていた。
私は周辺の被災状況を確認したくて、セク明子さんに断ってそこらの路地を歩いてみた。
数分と行かぬうちに瓦礫の山や、1階が潰れて、2階が覆い被さり、ぺしゃんこ状態の家屋が何軒か現れ、衝撃を受ける。
この角を曲がった先には、中学生の児童を亡くした家もあるとのことだった。
戻ると、セク明子さんに反対方向に数軒行った先の「魚正」、地元に愛される魚正に、案内された。
気のいいご夫婦経営のアットホームでリーズナブルな魚屋は、家は半壊したが、前面の店舗が奇跡的に残ったおかげで、営業再開に漕ぎ着けたという。
今日はあばれ祭のせいで、刺身の注文が目白押し、豪華な舟盛りの新鮮な能登産海の幸がたったの3000円(税込)とは、良心的な値段に頭が下がった。
奈良から駆けつけたボランティア団体と、メルヘン日進堂の店主(中央黒の制服姿)も含め店内で記念撮影。
まさに能登はやさしや、である。人があったかい。
魚正を後にして、車で10キロほど北上した珠洲市に向かう。
元旦の巨大地震の震源地で津波被害のあったところである。
途上崩落した家を何軒も目撃したが、珠洲に入ると、復興の兆しも感じた。
瓦屋根の木造家屋の家並みが美しく、整備された舗道が、震災前の観光地としての顔を窺わせる。
地元民に人気の老舗洋菓子店(営業歴111年)、「日進メルヘン堂」(本格バウムクーヘンで有名)を、セク明子さんの案内で訪ねた。
30年経営に携わる女性店主の石塚愛子さんは、自らも被災しながら、店内にふれあいコーナーを設け、被災者同士のコミュニケーション、特に孤立しがちな高齢被災者が気軽に相談できるような場をフロア中央に設け、喜ばれているそうだ。
そのとき、ちょうどボランティアグループが入ってきた。奈良に本拠地のある宗教団体らしい。
ピンクのユニフォームに身を包んだグループに、セク明子さんと共に、能登町が、輪島や珠洲に比べると、無視されがちな現状を話し、支援を仰いだ。
透快君と颯君は、店からもボランティア団体からも寄付の菓子類を提供されニコニコ、最後に全員で記念撮影した。
再度車に乗り込み、夕刻前に宇出津に向かった。
既にお祭りは始まっているが、目玉は夜の切子燈籠(きりことうろう)に灯が入る頃、まだ時間があるので、宇出津の漁港に出て小型漁船の並ぶ静かな入江を、芝敷きの公園のベンチに座って、眺めた。
途上立ち寄った明子さんの先祖代々の墓も根元からポキリ。亡き祖父はここに眠る。
美しい能登の海に心が和むようで、半年前あれほどにもひどい地震があったとは信じられない。
復興への祈りのこもった今回のあばれ祭、気迫やいかにと期待に胸がはやる。
被災後のさまざまな問題を抱える地元民に、ひとときでも元気を与える材料になればと心から願った。
(「インド発コロナ観戦記」は、92回から「インドからの帰国記」にしています。
インドに在住する作家で「ホテル・ラブ&ライフ」を経営しているモハンティ三智江さんが現地の新型コロナウイルスの実情について書いてきましたが、92回からはインドからの「帰国記」として随時、掲載しています。
モハンティ三智江さんは福井県福井市生まれ、1987年にインドに移住し、翌1988年に現地男性(2019年秋に病死)と結婚、その後ホテルをオープン、文筆業との二足のわらじで、著書に「お気をつけてよい旅を!」(双葉社)、「インド人には、ご用心!」(三五館)などを刊行している。編集注は筆者と関係ありません)
本記事は「銀座新聞ニュース」掲載されたモハンティ三智江さん記事の転載になります。
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作家・エッセイスト、俳人。1987年インド移住、現地男性と結婚後ホテルオープン、文筆業の傍ら宿経営。著書には「お気をつけてよい旅を!」、「車の荒木鬼」、「インド人にはご用心!」、「涅槃ホテル」等。