【連載】ノーモア沖縄戦 命どぅ宝の会 メールマガジン
ノーモア沖縄戦

メールマガジン第200号:琉球両属と台湾出兵 廃藩置県と琉球王国の廃止・琉球藩の創設から沖縄県設置まで(下)

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沖縄中国帰属論の無理筋
中国の学者らによる沖縄中国帰属論の根拠は、その昔、沖縄(琉球)が中国の華夷秩序に組み込まれ、中国に朝貢していたというところにあるようだ。沖縄は中国、日本(島津)に両属していた。
しかし、そのような事実があるからといって、沖縄は中国に帰属すると云う論には無理がある。
1943年11月27日の米・中。英三カ国によるカイロ宣言に際し、中華民国の蒋介石総統は、事前にルーズヴェルト米大統領と日本敗北後の世界、すなわち天皇制を存続させるか否か、戦争賠償請求の有無等々について意見交換した。沖縄の帰属について問われた蒋介石は、中国は沖縄について権利を主張しないと明言し、米国による沖縄の軍事占領を進言した。この蒋介石の見解は、その後微妙に変化し、日本の敗戦後、沖縄に国民党の支部が作られ、わずかではあったが沖縄にもこれに同調し、沖縄の中国(台湾)帰属を画策する動きもあった。しかし、このような動きは沖縄住民の支持を得られず、やがて霧散した。
1972年5月15日、沖縄の日本への「復帰」に先立って、蒋介石は、これに反対し、日本への復帰の是非について沖縄での住民投票を求めた。この要求は米国に一蹴された。
もっとも、蒋介石の反対の主要な動機は、沖縄の日本復帰により在沖縄の米軍基地機能が低下することへの恐れにあった。日米安保条約の事前協議条項による米軍の行動制限、核の持ち込みを禁じた非核三原則による制約等々に対する危惧だ。韓国の朴正煕軍事政権も同様な理由で沖縄復帰に反対した(成田千尋『沖縄返還と東アジア冷戦体制』人文書院)。
これらの点については、佐藤栄作首相(当時)が、沖縄の日本復帰により、米軍基地機能に一切の変化はないと明言したことにより解決した。1967年9月、佐藤首相は訪台し、蒋介石総統にその旨約束している。
大陸の中華人民共和国は沖縄の日本復帰に異論は一切述べていない。
5月15日の沖縄復帰後の同年9月29日、日中国交正常化を実現させた日中共同声明に際し、日中間には尖閣諸島(中国名「魚釣島」)の領有問題に関しては「棚上げ」とする合意があったが、沖縄の領有問題について中華人民共和国が言及したことは一切ない。同声明第6項は、沖縄の日本帰属前提の下に、両国間の「主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵」を謳っている。
以上のような経緯を見るならば、沖縄独立論はともかく、その昔、沖縄が中国に朝貢していたという歴史的事実を根拠に、沖縄の領有権は中国にあるとする論は無理筋だ。
その昔、朝鮮半島の国々も中国に朝貢していた。中国が、朝鮮半島の領有権を主張したとして、韓国国民はこれを受け入れるだろうか。

【追記】捨て駒としての沖縄
1945年敗戦間近の6月、元首相近衛文麿を特使としてソ連に派遣し、ソ連を仲介とする終戦工作構想があった。その際、近衛が携える案では、日本固有の領土を確保し、それ以外の沖縄、北方諸島の放棄もやむなしとされていた。
敗戦後の1947年9月、連合国総司令部宛ての裕仁天皇の沖縄メッセージ ― 沖縄を25~50年間に亘って米軍の基地として使用して欲しい ― もこのような流れにある。
統治権の総覧者から「象徴」になったはずの裕仁天皇のこのメッセージでは、この提案は「広範な国民の承認」が得られるだろうとされていた。「広範な国民」の中には沖縄県民は入っていなかった。多くの婦人議員が誕生した1946年4月の戦後最初の総選挙で、沖縄県民は選挙権の行使を許されなかった。
沖縄選出の最後の議員の1人、漢那憲和(かんなけんわ)は、
「帝国議会に於ける県民の代表を失うことは、その福利擁護の上からも、又帝国臣民としての誇りと感情の上からも、洵(まこと)に言語に絶する痛恨事であります。此の度の戦争に於いて六十万人の県民は出でて軍隊に召された者も、止まって郷土に耕す者も、各々其の職域に応じて奉公の誠(まこと)を尽くしました。沖縄作戦に於いては、男子は殆ど全部が陣地の構築は勿論のこと、或いは義勇隊を編制し或いは徴集せられて戦列に加わり、郷土防衛に全く軍隊同様奮闘し、師範学校及び県立一中の生徒の如き全部玉砕しております。又婦女子も衛生隊、給食隊として挺身し、国民学校の児童たちまでも手榴弾を持って敵陣に斬り込んでおるのであります。……凡そ此の度の戦争に於いて沖縄県の払いました犠牲は、其の質に於いて恐らく全国第一ではありますまいか。此の県民の忠誠に対して、政府は県民の代表が帝国議会に於いて失われんとするに当りまして、凡(あら)ゆる手段を尽し、之を防ぎ止めねばならぬと存じます。」とその不当性を訴えた(古関彰一「憲法9条はなぜ制定されたか」岩波ブックレット)。
1945年6月6日、太田實海軍少将(死後中将)が海軍軍令部次長宛てに発した訣別電報、「沖縄県民斯ク戦エリ、後世県民二対シ、格別ノ御高配賜ワランコトヲ」に対する回答がこれであった。
繰り返し示された民意を無視し、辺野古新基地建設が唯一の解決策と言い続ける現在の日本政府態度も同じだ。

【注1】
リゼンドル(仏読みではルジャンドル)は日本外務省の顧問として「台湾出兵」の参謀役を務め、後に日本に移り住み、松平春獄の娘と結婚した。その子供が大正から戦前昭和の代表的な歌舞伎役者の一人である名優15代目市村羽左衛門である。

【注2】
日本軍によって持ち帰えられた牡丹社頭目アルクら4人の頭骨は、その後、英スコットランドのエディバラ大学解剖学博物館で保管されていたが、2023年11月5日、木箱に収められて、台湾に返還された。台湾出兵から約150年を経てようやく故郷に還ることが出来た。
命を奪っただけでなく、その頭骨を持ち去り、遠く異国の博物館に「標本」として保管するという人間の尊厳を無視した西欧植民地主義の非人道性を思う。
2023年11月3日、エディンバラ大学で行われた頭骨の返還式では、台湾から参列した霊媒師が4人の霊と交信したところ4人全員が「家に帰りたい」と伝えたという(「台湾民族頭骨 なぜ英国に」2023年12月9日毎日新聞)。

内田雅敏(弁護士)

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