第21回 右側頸部の傷も改ざんか
メディア批評&事件検証今市事件の裁判が始まる前に宇都宮地検と捜査本部は、困った問題に頭を痛めていた。これまでにも書いてきたが、被害女児の遺体発見後、茨城県警が筑波大学法医学教室の本田克也元教授に嘱託した女児の遺体解剖結果が供述調書と要所要所でことごとく一致していなかったことだ。執刀医に頼み込めば何とかなると捜査本部の警察官を筑波大に向かわせたが、妥協を許さない法医学者は首を縦に振ることはなかった。
これまで集めた証拠の中で一番期待した被害女児の頭部から押収した布製粘着テープのDNA型鑑定は、勝又拓哉受刑者のDNA型を何度も試みる鑑定で全く検出されず、このままでは無罪証拠になってしまう。被害女児と異なるDNA型があっても、それは勝又受刑者と合わない以上、それを隠すしかなかった。
そうなると物的証拠の決め手に欠ける。それだけに勝又受刑者を逮捕後に栃木県警が行った家宅捜査でアパートの倉庫から見つけたスタンガンの空き箱は、中にスタンガン本体が入ってなくて重大な証拠になるのでは、と小踊りしたはずである。
それで検察は女児の解剖をした本田元教授が提出した鑑定書をつぶさに見ていき、スタンガンでできたとしてもいいような傷はないか、と必死に探し始めた。
すると右側頸部には、間隔をおいて並行した位置にある2対の傷があるのに気づいた。「これではないか」と思ったのだが、困ったことには、これについて本田元教授は、爪によってできた傷ではないか、と書いている。この鑑定書を提出させるわけにはいかない、と検察官は考えたはずである。本田元教授が茨城県警を通して捜査本部に提出した鑑定書を見てみよう。
(左目外側の傷)左眼窩部周囲には左右が6.5㌢、上下が3㌢の青紫色の皮膚変色部があり、左外眼角部から上方約0.6㌢には、径が3ミリ程度の線状表皮剥脱を含むやや変色の強い部分がある。さらに左外眼角から左下方1㌢の部位には、左右が1㌢、上下が0.3㌢の隋円形乃至三角状の表皮剥脱がある。この表皮剥脱は、ほぼ面上で比較的凹凸がなく、平面状である。
(右側頸部の傷)なお線状の表皮剥脱は、右の下顎から右側頸部にかかる部分、右の耳介の下付着部分の下やや後方3㌢を上端とし、その部位から上下方向に長さ3.5㌢の範囲には、4個の線状の表皮剥脱があり、やや屈曲を示す。先端がやや鋭利な爪やその他のやや鋭利的なものによる損傷と認められる。
本田元教授は解剖した当初、右頸部の傷については、「先端がやや鋭利な爪やその他のやや鋭利的なものによる損傷」としており、爪でできた傷であることを強く疑っていた。一方、左目の外側の傷は何でできた傷なのか、きっぱりと判断しかねた。それで鑑定書の最終章では「刃器でできた傷としては不自然である」と記載するにとどめていた。
検察は左目外側の傷の凶器が何なのか、鑑定人がはっきりと判断していないので、それは棚上げしたのだろう。ただ問題は、右側頸部の傷である。それは検察にとっては、なんとしても、自らのスタンガンによる傷ではないか、として探しだした喜びに舞い上がって、ここは鑑定人の見落とし、ないし間違いにさせてしまって、自らの手柄として守りたい牙城であったに違いない。
というのは、これこそは勝又受刑者を有罪判決へと導くための唯一ともいうべき証拠であるのだ。何としてもスタンガンによってできた傷でなければならないものであったからである。しかし、検察官の意見だけでは通るはずはない。どうしてもこれには専門家のお墨付きをもらう必要がある。誰か適当な人はいないか、と全国を探しあてた結果、浮上したのは九州大学大学院医学研究院法医学分野の池田典昭教授であった。
検察、警察は都合よく、スタンガンそのものが見つからなくても、箱が見つかった以上、この傷の由来を勝又受刑者の「秘密の暴露」に仕立て上げたかったのだろう。だから一審の裁判員裁判で犯行の道具の一つとされたスタンガンの自供の調書があるのだ。右頸部の傷はスタンガンによるものとしたのだ。
勝又受刑者の母親によると、警察が押収した空箱の中のスタンガンは「ずいぶん前に拓哉が弟にあげたもので、いつなくなったかは記憶にない。警察が空箱を押収した時もなかった」という代物だった。
読者の皆さん、覚えているでしょうか?この私の連載で5月9日付「第12回どうやって犯人像をつかんだの???」の記事中の中に写真付きで2014年6月10日付で栃木県警の捜査本部から宇都宮地検の岡山賢吾三席検事からFAXで9年ほど前の解剖結果について十数もの質問を書いた文書が本田元教授のもとに送られたことを。
勝又受刑者を初めて殺人容疑で逮捕したと当時の栃木県警の阿部暢夫刑事部長が今市署で高らかに記者会見してから1週間後の出来事だった。
この文書は、女児の司法解剖後初めて捜査本部の刑事たちが本田元教授に確認したいことがあるので会いたいと連絡があったので、確認したい内容を文書にして送ってほしいと返答したことで送られてきたものだ。その文書が今になって輝き始め出した。あえて説明しよう。
「本田先生に確認させていただきこと」と題した質問の中にはこんな内容も。
1.刺し傷以外で体表上で確認できる傷(鑑定書に記載されている擦過傷、表皮剥奪、圧痕等)の位置を確認させてください。検視時(実況見分)の写真で、認められている傷の位置が、どの傷に相当するのかを教えてください。
4.右側頸部の4個の線上の表皮剝奪は、スタンガンによるものとして矛盾がありますか。
本田元教授はこの質問を読んで、初めて捜査陣が解剖内容を変えようとしていることに気づいた。自分の鑑定書のうち都合のいいところを抜き取り、解釈しようと企んでいるのでは、と疑った。とくに右側頸部の傷がスタンガンというのには驚いた。そんな傷ではあり得ないと思った。
その後、栃木県警2人、茨城県警1人の計3人の捜査員が元教授のオフィスに訪れたが、その態度は、意見を伺いたいというのではなく、殺害現場が死体遺棄現場であるはずだ、被害女児は性的な暴行を受けたのではなかったかなど鑑定書の記載を無視した弁舌に終始し、それを否定する本田元教授の言葉は軽く聞き流す、といった呆れ果てたものだった。
特に、スタンガンについては、真っ向から否定されては困るので、話題には出さなかったのである。また勝又受刑者が逮捕された後であったにも関わらず、捜査の結果や自白内容はまったく話さず、それを聞いても「まだこれからだ」とお茶を濁すだけで、捜査側の手の内を全く話さない態度にあきれ果てて物別れに終わった。
本田元教授は、胸を刺した凶器も見つからないという。またどう使ったのかの説明もないことには失望した。爪による傷であるという供述もなさそうなこともがっかりさせられた。現在、逮捕されている容疑者を犯人と断定できるような証拠は一切ないのでは、と今後の成り行きに背筋がゾッとするような恐怖を覚えた。
だが、捜査機関の悪事はいずれ、明らかになっていく。まず鑑定人である本田元教授には内緒で、公判前整理手続きでは、鑑定書は証拠として採用させずに、統合捜査報告書として、都合の悪いところはすべてカットさせて部分引用してしまった。これは意図的な証拠(鑑定書)隠しとそれに代わる証拠の捏造(スタンガンの傷)以外にありえない。
しかし、本田元教授は、宇都宮地検の岡山三席検事がファクスで確認を求めてきた右頸部の傷以上に、左目の傷が何によるものだったか、こちらの方が重要であることがわかっていた。それが解剖から数年後に本田元教授の息子たちの兄弟げんかで、偶然に何による傷かが判明するとは。このような解明の方法があろうとは、検察は夢にも思ってもみなかったろう。
本田元教授の判断では、左目外側の傷は右側頸部と同じく爪でできたとしてよいもので、しかも殺害前につけられたであろうこともわかったのだ。この傷を「どうやってつけのかがわかっている人間」こそが真犯人であり、真犯人であることの証明になるのだ。いわばこれが本当の「秘密の暴露」の1つなのだ、と本田元教授は思った。
しかも完落ちしたとされる勝又受刑者の自白には、爪を使って傷をつけたという供述は一切出てこない。つまり勝又受刑者は、自分のDNA型も出ないし、左目の傷や右頸部の傷を本田元教授が分かったような方法でつけたことも供述していない。これこそ確たる無罪証拠である。
しかし、本田元教授はその凶器が分かろうとして長年もの間、熟慮し続けた結果、偶然の日常的な事実に遭遇し、左目の傷も右頸部の傷も、いずれも爪の使い方の違いによってできたものとして、一元的に説明できることが完璧にわかってしまったのである。
裁判員裁判対象事件については必ず、最初の公判前に公判前整理手続きを開く。裁判所、検察官、弁護人が争点を明確にした上で、これを判断するための証拠を厳選し、審理計画を立てる。
つまり、検察官と弁護人の主張を聞き、真に争点はどこかを絞り込む。さらに争点を立証するためにはどのような証拠が必要か、どのような方法で調べるのが相当かなどを検討するとともに、公判の日程など判決までのスケジュールを立てる。いわばここである程度のことが決まるのである。
本田元教授は「右頸部の傷が鑑定人が推理しているような、爪でできた傷であっては困るから、鑑定書と鑑定人封じに全力を上げてかかったのではないか」と推理する。というのも、勝又受刑者を起訴したある日、宇都宮地検の検事が茨城県警に電話し、「鑑定書以外で右の頸部の傷がよく写っている写真はないか」と問い合わせていたからである。
他に手持ちの写真はないか、もっとスタンガンによる傷のように見える写真はないか、あるいは後でスタンガンであることを否定されるような写真を持っていたら困ると思い、遠回しに聞いて、自らの手元に置いておきたかったのではないか、と本田元教授は推測する。
独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。