東アジア共同体形成の意義と課題をめぐる考察 ―木村朗氏との対話を手掛かりに―(下)

西原和久

4.残された主要な課題

さて、以上のように、東アジア共同体・沖縄(琉球)研究会は、その共同代表の一人・木村朗氏によって、名称は何であれ、「アジア共同体平和評議会」といったかたちの連携に拡大されようとしていた。しかしながら、すでに触れたように、2019年末からの新型コロナウィルスのパンデミックによって、会合そのものが延期となってしまった。

今日では、オンラインでの会合も比較的容易に国際会議が開催可能となってきているが、やはり設立大会のような会合は――参加者が初対面のケースも含むので――やはり対面状況で会合を持つのが望ましいであろう。

その意味では、2020年3月の会合が流れてしまったのは、返す返すも残念である。旗振り役の木村朗氏は、コロナ禍の2020年の春には沖縄の地にも居を構え、現在は、事務所を兼ねたその地の自宅で、新たに「東アジア沖縄平和塾」を主宰している(21)。木村氏においても、再出発、あるいは仕切り直し、次への準備、といったところであろうか。

以上で、「東アジア共同体・沖縄(琉球)研究会」の展開から「アジア共同体平和評議会」への構想について見てきた。そこで論じられてきたこと、あるいは趣意書などで記されてきたこと、こうしたことはいずれの重要な点である。

しかしながら、筆者としては、この構想に関して、細かい点も含めいくつか気になる点、あるいは今後さらに検討すべき点がある。以下ではまず3点、そして最終的には合計で4点ほど指摘してみたいと考えている。

まず第1に、「天皇(制)」をめぐる議論である。なぜ、ここで天皇制に言及するのかは少し説明がいるだろう。

それは戦前の帝国日本における天皇の役割、とりわけアジア侵略における帝国軍隊・皇軍の問題、あるいは琉球やその他の植民地における皇民化政策、そして戦後すぐの日本国憲法成立後の昭和天皇の「政治的」行為、こうした歴史的な問題を背景に、(北)東アジアにおけるトランスナショナルな交流を考えようとするときに、「アジア侵略」の背景にある「天皇」の問題への明確な自覚がなければ、「人際」「民際」の交流は進展しないという問題があるからである。

ここでは、この天皇(制)の存立基盤などに関する分析には立ち入らないが(22)、天皇制への明確な意識化なくしては、アジアの交流の飛躍的な進展は望めない。もちろん、それぞれの国の文化の差異は尊重されるべきで、差異の中での交流が望まれる面もあるが、とくに(北)東アジアの交流に関しては、かつての戦争と天皇の問題への反省なくしては、進展しない。それは、中国や韓国がこの問題を常に意識しているからでもある。

この点に関して、木村氏のスタンスは明確である。それは、最近の例では、内田樹や鳩山友紀夫の両氏との対談で、明確に浮き彫りにされている(内田ほか 2019)。前者は「天皇主義宣言」を語りつつ民主制と天皇制のいわば補完性を認めて天皇制を評価し(内田2017も参照)、後者の鳩山元首相は平成の天皇との個人的関係も含めてこの天皇への高い評価を抱いているのに対して、木村氏は「天皇制と共和制は本来相反するもの」だとして、批判的に見ている(内田ほか 2019:67)。

それゆえ、木村氏自身は、「憲法第一章の天皇条項はすべて削除すべきだ」という点で「改憲論者」だとも表明する。少なくとも、このように天皇制へのスタンスは、東アジア共同体を論じる際に明確にしておくべき重要な点である。筆者はこの点でも木村氏と発想は極めて近い。

だが、第2に、もう一つ気になる点がある。「(東)アジア共同体」を現時点で論じている人びとの多くは、きわめて当然のことだとはいえ、沖縄の基地を問題視する。それについては、筆者もまったく異論はない。

しかしながら、日本の基地問題を考えるとき、たとえば東京の米軍横田基地や旧米軍立川基地(砂川闘争後に横田基地に統合され、そこに現在は自衛隊が移駐している)も重要な役割を果たしてきた。

Tokyo, Japan – July 18, 2011:United States Air Force Boeing RC-135S Cobra Ball MASINT (measurement and signature intelligence) aircraft at Yokota Air Base.

 

とくに戦後の朝鮮戦争やベトナム戦争において米軍立川基地や横田基地などはきわめて重要な役割を担ってきたし、2018年にオスプレイが配置された横田基地には、在日米軍の司令部があり、さらには「国連軍」の司令部(正確には朝鮮国連軍の後方司令部)も置かれている。つまり、米国・米軍の東アジア支配の主要拠点の一つが横田基地であり、しかもオスプレイも配置されており、普天間の近隣住民と同じく、横田の近隣住民も騒音や事故の危険などに直面している(高橋 2020参照)。

つまり、残された課題の一つとして、沖縄の基地問題に取り組んでいる人びとと、本土の基地問題やさらには済州を含む韓国の基地問題にかかわっている人びととが、いかに連携を確立していくかという問題があるのではないだろうか。もちろん、こうした連携が今日までなかったわけではない(23)。

しかし、北東アジア地域全域を意識した連携は少なかった。そしてそれは、「中国・北朝鮮脅威論」を越えていくことで、北東アジアにおける国ぐにの関係の改善をも包含するものとなろう。

沖縄の基地問題(自衛隊配備のいわゆる「南西シフト」問題を含む)が、横田空域や岩国空域など本土の米軍支配との関係をも重視することで、北東アジアからの平和構築の道の第一歩がここに見えてくるように思われる、と筆者は考えている。もちろん、その第一歩は、本土の人間によっても積極的に踏み出される必要があることは言うまでもない。

第3に、もう一つだけ気になる点(ないしは要検討課題)を述べて、「残された課題」へのここでの言及をひとまず終えたい。それは、「国益」をめぐる問題である。

筆者は別の個所で(西原 2021: 188f.)、国益との関係で現代のオリンピックに言及したことがある。オリンピックは、19世紀末に始まり、20世紀を通して継続し、そして21世紀も続いているが、「平和の祭典」からは程遠く、実情としては「国家間競争」をあおる祭典の歴史となっていることを指摘した。

問題となるのは、かつてもナチスの下でのオリンピックなどのような国威発揚だけではなく、また1984年のロス・オリンピック以後の祝祭資本主義的な利潤獲得の場(あるいは利権の場)となっているという点だけではない。ここで問題となるのは、とりわけ無意識のうちに自国を応援するプチ・ナショナリズムの場となっている点である。

この点に触れたのは、私たちの中には多くの場合、知らず知らずのうちに、まず自国のことを真っ先に考えることや自国の発展などを願うことが「当然である」かのような心性が形成されているからである。そしてそれが、自分の国さえよければという「自国中心主義」「自国第一主義」、あるいは自国ファースト、たとえば「アメリカ・ファースト」(トランプ大統領時代の言葉)などと結びついている。

これと同様に、「国益」という発想も、自分の国の利益が優先されるのは極めて当然=自然とされてあまり問い直されることはない。だがこれは、明らかに近代国民国家が本格化した段階での歴史拘束的な見方に過ぎない。

今日では、グローバルな平和、共生、格差、環境などの問題が自覚され、SDGsのように国際的な規模での対応が提起されてきて久しい。一方でナショナルな個別の論点が自明視され、他方でグローバルな普遍の論点が提起される。そしてこの間に、まったく矛盾がないようなかたちで事が論じられている。そしてそれらに、民主主義の論理が重ねられる。これは本当にそうなのであろうか。

この点で、先に留意を促していた点だが、日本の保守政権批判の文脈でも「真の独立国家」などといった「国家」の存在(ないし「国家」化をめざす「独立」)の自明視のもとで議論が展開されがちである。

国家とくに近代国民国家の存在(様態)は「自明」ではなく、もはやこれまでの存在様態の国家はその歴史的使命を終えつつあり、再検討の時期に来ているのではないだろうか。そうした問いへのアプローチがぜひとも必要だ。あるいは少なくとも、パーソナルやローカルな問題とナショナルな問題との関係のみならず、さらにはナショナルな問題とリージョナルな問題やグローバルな問題との関係もまた、これまでの国家存在の自明性を前提にせずに、未来に向けた理念理論の構築のためにしっかりと問われる必要があるのではないか(西原 2018a)。

筆者としては、その根底に、人びとの生命・生活に関わるコーポレアルな(身体的な)位層の問題が出発点としてあることは再確認しておきたいが(西原2018a, 2021)、そうした位層の問題は一般には必ずしも十分に問われていない。

筆者は、社会空間を考えるときに、これらの位層間の関係を問うという視点を導入すべきだと考えており、それを――トランスナショナルな視点と同時に――「グローカル」な視点において問うことを提起している(西原 2021)。

まさに、「東アジア共同体」論は、ナショナルな位層を超えたリージョナルな位層での「連携」への問いを立てることであり、単に「国益」のレベルから問うことではない。あるいは百歩譲って、「国益」は今日、自国のみを考えていては達成できずに、一方でパーソナル、ローカルな位層と、他方でリージョナル、グローバルな位層を考慮に入れて初めて、達成できるのである。簡潔にあえて言えば、「国益」は「国際益」の下でのみ、達成可能だということである。それは戦争の問題などを考えれば明らかである。

戦争によって、身体や人間性は危険にさらされ、ローカルな地域生活やリージョナルな地域生活すらも破壊され、そして核時代には、グローバルな危機に直面する。だからこそ、グローカルな問いに応えることが――百歩譲って言えば――「国益」にも叶うことになるのだ。いずれにせよ、国家間戦争を背後で支えるナショナリズムと親和性を持つ「国益」や「国家」という発想自体には大いに注意が必要だ。

しかし巷では、政治家の(選挙や国会での)発言に典型的なように、多くの政策が「国家のため」や「国益に叶う」かどうかだけで判断されるような風潮がある。その風潮に無自覚なままに、「国益」「国家」のためにリージョナルな共同体が論じられるとすれば、それは大きな問題をはじめから抱えることになるのではないか。自国の国益のためだけにリージョナルな連携が模索されているわけではない。「国益」や「国家」という言葉遣いや概念などには十分な留意が必要だろう。

 

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西原和久 西原和久

砂川平和ひろばメンバー:砂川平和しみんゼミナール担当、平和社会学研究会・平和社会学研究センター(準備会)代表、名古屋大学名誉教授、成城大学名誉教授、南京大学客員教授。著書に『トランスナショナリズム序説―移民・沖縄・国家』、新泉社、2018年、などがある。

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