登校拒否新聞2号:「不登校」は行政用語

藤井良彦(市民記者)

号外に始まった『登校拒否新聞』も3号を迎えました。そこで、登校拒否という用語について一言。何も『不登校新聞』にアテつけて『登校拒否新聞』と名乗っているわけではありませぬ。「不登校」というコトバを使えない理由がいくつかあるわけで。

単純な理由としては自分自身が「不登校」と意識したことはないから、そうは言わないということだ。号外に書いたように私は中学校には1日も通わなかったけれどもフリースクールなどに通ったことはない。将棋道場に日参していた時も、とくに学校のことを聞かれることはなかった。

社会学にアジールという概念がある。社会的な身分が消える寄場のような所を指す。互いに仕事は何をしているかとか結婚しているかとか、そういったことを聞かない間柄の集団である。履歴書は必要ありません。私の通っていた将棋道場はそういう場所であった。雀荘で用心棒として働いている男が眠そうにしている。彼は奨励会崩れで将棋はめっぽう強いのだ。一度だけ聞いたけれども、彼も学校には行かずに新宿将棋センターに通っていたそうだ。親しければそういう話も聞けるが好んで話すことではない。こうして思い出してみると、彼は私にとっての先輩だったのだろう。「打たなきゃ負ける」と言って、舟囲いに5九銀打と一枚足した局面を覚えている。二枚飛車にされた局面で、8四香と打たれている。あとは馬を引きつけて8六歩と突いて香車を取りにいく。攻め駒の銀を手放しても受けるところはきちんと受けて、あとは香車を歩で取り切れば勝ち筋に入るという大局観である。おや?『将棋新聞』でしたっけ。

現代社会にはアジールのような治外法権の場所が消えている。探せばあるんだろうけど、例えば碁会所や将棋道場のような場所はどんどん減っている。電脳空間があるじゃないか。そう言いたいところだが、はたして仮想空間はアジールなのだろうか?

学校に通っていない子を「学校外の学びの場」に入れることはその子を「不登校」にすることである。「不登校特例校」は公教育化されたフリースクールの意見を入れて「学びの多様化学校」と名を変えた。フリースクールであればなおのこと、そういう学校に身を置く子どもたちには「不登校」という意識が生じるのではないか?名前は違えども義務教育学校である以上、そこに通えば出席点は付く。しかし「ある種の子ども」という含意がそこにある。最近ではメタバースを利用した「居場所」の提供が盛んである。学校の外にいながら「居場所」という名の学校に取り込まれる。

全欠席の私は内申書が出せないということで、市の教育相談センターで紹介された私立の通信制高校に進学した。義務教育学校に通学していないことにより、その後の進学に際して不利益を被ったわけである。それを「不登校を経験した」と言うのではおかしい。

私が問題としている「不登校」のステータス化というのは学校制度に起因する問題が「不登校経験」という個人の心象にすり替えられることを言う。そこで語られる経験とは画一的な学校教育になじめなかったという驚くほど一様なものである。「支援者」や「理解者」といった「不登校の専門家」たちに毒されずに育って欲しい。

もう一つ「不登校」というコトバを使えない理由を哲学の立場から申し上げたい。日本の大学には哲学部がないから哲学博士という学位はない。私の学位も文学部で認められたものだから文学博士である。ただ、文学部哲学科で通した学位論文なのだから常識的には哲学博士ということになる。哲学者と名乗る気はないけれども、哲学という学問上の立場から「不登校」について物申す。

哲学には存在と当為という区分がある。「ある」と「べき」の違いと言うべきか。「不登校」とは存在の否定だというのが私の主張だ。登校拒否よりも「不登校」のほうが価値中立的という主張は専門書に散見される。しかし価値中立的であることの意味を考えてみよ。独身やバツイチは価値中立的な言葉ではない。独身貴族、バツイチ女性・バツイチ男性という括りは価値的なものだ。では「不結婚」と言えば価値中立的なのか?プー太郎、ニートと言えば価値が入る。では「不就労」と言うべきなのか?

登校拒否よりも「不登校」のほうが価値中立的という主張は現代的な感性だと思う。義務教育とはコンパルソリー・エデュケーションの訳語だから強制教育と訳すべきという意見もある。まさに国民の義務として課せられた学校教育なんだが、そこに通学することを拒むというのは政治的にはやはり拒否とでも言うべき行動である。ところが、それを「拒否」と言えない。本当は行きたいのに行けないなどと「理解」してしまう。とある出版社の社長と話していた際に「ひきこもり」じゃなくて「たてこもり」と言ったらどうかと提案されたことがある。冗談みたいな話だけれど、時代の感性というのはあると思う。

自分は「ヒッキー」だったと言われたことがある。「Nト」と言われたこともある。前者は宇多田ヒカルのあだ名にかけたもので、後者はニートを略したものだ。どちらにもアイロニーがある。自虐的と言うべきか。敢えて「ひきこもり」「ニート」というカテゴリーを担いながら「ヒッキー歴〇年」「俺、Nトだから」と諧謔してみせる。価値中立的とはもっともらしく聞こえるけれども、自分という存在が社会的に価値中立的であることに君は耐えられるか?

可能性はポテンシャルとして存在するが不可能なことは存在しない。それと同じように「不登校」は存在しないのである。ドーナツに穴があるというような形而上学的な意味で「ある」というのではいかにも人を食ったような話だ。欠席者は存在しても「不登校」は存在しない。この点は行政の行う調査の問題にも関わってくるのでまた別の機会に詳しく述べよう。

行政といえば「不登校」は行政用語だという問題がある。であるから、私は登校拒否を民間用語として使用している。これが「不登校」というコトバを外す三つ目の理由である。出版や報道を通じて、登校拒否が「不登校」に取って代わったのは1990年代のことだ。それ以後も登校拒否という言葉を使っている人はそれなりに考えのある人である。

拙著『不登校とは何であったか?:心因性登校拒否、その社会病理化の論理』(社会評論社)はタイトルにあるように登校拒否が「不登校」と名を変えたのはなぜか?という理由を社会病理論という論理に求めている。この点は「不登校」のほうが価値中立的という先の論点にも関わっている。つまり言葉の上で「拒否」よりも「不」というのではない。論理の転換があったからこそ用語が変わったのである。であるから、その用語を使うかどうかということは、その論理を認めるかどうかという点に関わる。言葉のニュアンスの上でどっちかを選ぶということであっては専門家として不見識である。

べつにどちらかが正しいと言っているのではない。行政用語だから「不登校」を使うというのならけっこうである。報道機関であれば「不登校」を使うのが無難だろう。ただ「日本」を「ニッポン」と読むことで報道が一致したのが大東亜戦争の時代であったように行政と報道が同期している時には注意したほうが良さそうだ。副作用よりも副反応のほうが価値中立的と洒落てみれば、何を言わんとしているか、いや。わかってもらえないかな?

登校拒否という用語の歴史については拙著『盟休入りした子どもたち:学校ヲ休ミニスル』(土佐堀舎)にも書いたけれども、この本を書いた時点では民間用語という発想はなかった。言葉の歴史としては本に書いたことで間違いない。しかし「不登校」は行政用語で登校拒否は民間用語という区分はその後の研究により得た着想である。研究者の中には「不登校・登校拒否」「登校拒否・不登校」と併記する向きもある。どちらを先にするかという点にも意味があるわけだが、学者の間で用語が統一されていないのであれば併記するのが大人の態度である。とはいえ、なぜ統一できないのかという点について認識がなければ識者として見識を欠くと言わざるを得ない。

登校拒否は民間用語という点については号を改めて書こう。

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藤井良彦(市民記者) 藤井良彦(市民記者)

1984年生。文学博士。中学不就学・通信高卒。学校哲学専攻。 著書に『メンデルスゾーンの形而上学:また一つの哲学史』(2017年)『不登校とは何であったか?:心因性登校拒否、その社会病理化の論理』(2017年)『戦後教育闘争史:法の精神と主体の意識』(2021年)『盟休入りした子どもたち:学校ヲ休ミニスル』 (2022年)など。共著に『在野学の冒険:知と経験の織りなす想像力の空間へ』(2016年)がある。 ISFの市民記者でもある。

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