「現状変更」を肯定せよ、反戦志向への告発
社会・経済・戦争が嫌か? 反戦も嫌だ
友人の赤木智弘が「希望は、戦争。」と書いて、すでに15年が過ぎた。その少し前まで、今は「素人の乱」で知られる松本哉はじめと東京・大久保駅近くのアジトに集っては「貧乏人たちが勝手に暴れ出す時代が来ればいいな」と語り合っていたことを思い出した。
いつしかそんなおとぎ話も忘れていたが、気がつけば現実になった。追い詰められた貧乏人たちが、通り魔的に暴れ出す。
そして、ロシアとウクライナの戦争も始まった。
「戦争」は、起きた。しかし私は戸惑いながら、こう思っている。「そうじゃない……なんか思っていたのとは違うんだ」。
ともすれば、自分は世間とはまったく異質の存在であることを、くどくど説明してまわりそうになる。
感じるのは日々の暮らしのなかでの閉塞感。初夏の陽気の中でもマスクを手放せないからではない。はるか遠くの土地で起きた戦争で、当事者の片割れであるウクライナに加担して、もう一方のロシアを悪の化身のごとく非難する世間の雰囲気。その怒りの感情が渦巻く空気感のせいだ。
いま、日々のテレビで、ネットで流されるニュースを通じて繰り返されるのは、ロシアへの一方的な非難だ。「国際法違反」というレッテル貼りは「虐殺」「戦争犯罪」という言葉に変わって、ますます苛烈になっている。
そんな雰囲気の中で、少しでもロシアに寄った意見を開陳するだけでも世間の目は冷たい。いや、すでにまともな人間扱いはしてもらえない。
「お前はロシア軍の虐殺をどうとも思わないのか」と、青筋立てて怒ってくる人はいない。たいていは「ああ」と触れてはいけない人に出会ってしまったという顔つきで後ろに下がるのだ。自分の立場性を表明するだけで「陰謀論者」「〇〇障害」「あたまがオカシイ」などなど、さまざまな評価を喰らっている。
こんなことは、今までなかった。かつてのイラク戦争の時には、アメリカに加担する意見もある一方で、イラクを支持する声も多かった。まったく空回りするばかりで情勢を変える力にはならなかったが、デモには幾度も数万単位で人が集まった。
それが、どうだろうか。もちろん多くの人が「反戦」を訴えている。しかしその中身は、ウクライナを無垢な被害者のごとく祭り上げ、ロシアを悪の帝国のごとく非難する声に満ちている。テレビやネットから流れてくる戦争の悲惨な風景を目にしては、ロシアに対する怨嗟を募らせているのだ。
なんら当事者性もなく、ただわずかな情報だけで構築された“空気”をあてられるほどに、これなら親露派のほうがマシなんじゃないかと思うのは私だけではないはずだ。
・親露派は汚名になるのか
そう、いまや親露派を公言することを決めた私だが、特にロシアにもウクライナにも縁もゆかりもない。日常で親しむロシアといえば、アリョンカのチョコレートくらいである。それでも親露派の旗を立てる理由は、ウクライナの背後にアメリカとNATOが存在していることに尽きる。
狭小な民族主義的立場で反米に寄ろうとは思わない。現代の世界を支配する側の秩序である議会制民主主義をベースとした国家と経済秩序には常に叛旗を翻したい。だから、それらに敢然と挑戦するものはすべて支持する。ヤツらが味方するものはすべて敵であるとシンプルに考えよう。
ならばヤツらの敵方、今回の場合はロシアが味方かといえば、そうとも思わない。タリバーンだとかイスラム国が出てきた時には、すごいヤツらが現れたと心を躍らせたものだが、宗旨は一ミリもかみ合わぬ。先方にしてみても、八百万の神への感謝を絶やさぬ私など、まっぴらごめんだろう。結局のところ想いはすれちがうのだが、それでも支配者側の秩序を動揺させるすべての勢力は支持したい。
2000年代以降、インターネットが発達し続け、情報伝達のスピードは日々速度を増している。しかし、「画面の中に映る戦争」というのは、そのままである。ただし、双方向性が加わったことで、大衆の意識はひとつの方向にまとめられた。
通勤通学の電車の中で開いたスマホで、茶の間のテレビで知っているだけの戦争。それでなにかがわかったような気になって、ウクライナは善でロシアは悪と理解する。
そこには、いま世界はどういう状況にあり、これからの世界のために、なにから始めるべきかという意識が欠如している。その欠如を埋める外部からの注入は、ない。
・ウクライナ大使館Vチューバー説
容易に目に触れることができる日本語で書かれたメディアは、濃淡はあれどロシアを悪とする前提で口上を並べている。
もっとも支配的な考え方は、ロシアが始めた戦争は「国際法」に反しているというものだろう。そして、日本政府も「武力による現状変更を認めてはならない」と息巻いている。
いったい、いつからそうなったのか、私にはわからないが、この世界を変更すること自体が悪みたいな風潮は何なのか。かつて赤木智弘に説教をたれた連中が、いまも幅をきかせている。
さらにたちの悪いことに、謎の民主主義信仰と民族主義が合体して、民衆レベルでもウクライナ大使館への投げ銭は大流行だ。最近では、ヴァーチャルユーチューバーというものが大流行で、若い世代では絵で描かれたキャラクター(と、背後の声優)がネットで配信する番組で、数万円単位で投げ銭をするヤツもザラにいる。
日本国内だけでも億単位でカネをかき集めているウクライナも似たようなものだ。これまでの経緯を吹き飛ばして、ロシアに侵略される無辜の民というヴァーチャルな存在を演出することで集金に成功しているのだ。
端的にいえばロシアもクソだが、ウクライナはそれ以上のクソである。もちろん、大多数の民衆は国家同士に動員されているにすぎない。それで戦火に晒されているのだから、同情する気持ちは私にもある。
だからといって「ロシアは侵略をやめろ」でよいのか。西側を背景に戦争の一翼を担っているゼレンスキーに対する階級的な鉄槌を下すことも欠かせないスローガンであるはずだ。そんな発言すらも容易ではない現状は、やっぱりオカシイ。
いま、はるかなウクライナの大地が焼き尽くされているなかで、ニッポン帝国の議論は極めて漫画的である。「北方領土」や北海道へのロシアの侵攻を危惧する声が巻き起こり、憲法改正問題が再び熱を帯びてきている。
本題から外れるが、「北方領土」や北海道が侵略されることを危惧する声には断固として異議を唱えたい。果たして、北の大地はいつから日本領だったというのか。歴史を振り返れば、津軽海峡よりも北の「日本国」が領土として主張する島々の実態は、明治維新以降に開発された植民地にすぎない。豊富な天然資源を目当てにアイヌ民族から収奪した植民地。その構造は、いまも変化はない。
そんな北海道の話題といえば、旅行と食べ物を除けば過疎化による衰退くらいしか聞くことはない。産業構造の変化とともに一部の都市を除いては、道内は衰退の一途を辿り、そのことを本土の人間が顧みる機会はほとんどない。いわば用済みになり半ば放棄されつつある土地を、いまさら侵略されると危惧するのは、あまりにも身勝手だ。
憲法改正は、今さら論じるまでもない。首都の直近にアメリカの占領軍が駐留する現状を、なぜ継続しなくてはならないのか。この視点に立てば9条を金科玉条のごとく扱ってきたリベラルの空虚さも改めて暴露されるだろう。
ルポライター。SNSではなにかと怒っている人ばかりなのに疲弊しブロック効率化ツールを導入。セクシーな画像しか表示されなくなった。平和だ。