「知られざる地政学」連載(69):「移行期正義」という視角(上)
国際2021年1月10日付の「論座」において、「「移行期正義」という視角が教えてくれること」という記事を公開したことがある。今回は、この記事をもとに、ドナルド・トランプ次期政権(「トランプ2.0」)がジョー・バイデン政権に対して行おうとしている「復讐」ないし「報復」という問題について考えたい。政権移行に伴って、正義の尺度が変化することで、復讐や報復が問題化する事態について、より一般化して考察したいのである。
ここでは、論座の記事および拙著『復讐としてのウクライナ戦争 戦争の政治哲学:それぞれの正義と復讐・報復・制裁』の「第7章 復讐・報復・制裁 (7)移行期正義という視角」(214~225頁)に書いた内容をもとに、「移行期正義」について、重複を恐れずに解説するところからはじめたい。
「移行期正義」(Transitional Justice)という概念は、もともと、圧政に苦しめられていた時代に、罰せられずに終わってしまった法の違反や人権侵害、さらに、違反行為そのものや刑罰を免れられてしまったことについて、新しい民主的国家のもとでどうするべきかという問題にかかわっている。いまで言えば、シリアのバッシャール・アル・アサド政権崩壊後、新政権が前政権下で要職にあった者や権力執行機関で働いていた職員などの処罰をどうするべきかという問題こそ、「移行期正義」を問うことになる。
ニューヨーク大学法学部のルティ・テイテルはその論文「編集ノート:グローバル化した移行期正義」(International Journal of Transitional Justice, Volume 2, Issue 1, March 2008)のなかで、「「移行期正義」とは、1991年に私が造語した表現であり、ソヴィエト崩壊と、1980年代後半のラテンアメリカの民主化への移行を受けてのことである。この用語を提案するに際して、私の目的は、過去の抑圧的な支配に続く急進的な政治的変化の時期に関連して、正義の独特の概念が自意識的に構築されていたことを説明することだった」とのべている。
「移行期正義」とは?
まず、「移行期正義」(Transitional Justice)とは何かについて語りたい。国際連合は、2004年に公表した事務総長報告「紛争・紛争後の社会における法の支配と移行期正義」のなかで、「移行期正義」を、「説明責任を確保し、正義を果たし、和解を達成するために、過去の大規模な虐待という遺産と折り合いをつけようとする社会の試みに関連したプロセスとメカニズムのすべての範囲を含んでいる」と説明している。これらには、国際的な関与のレベルが異なる(あるいはまったく関与しない)司法的・非司法的メカニズムおよび、個別の起訴、賠償、真実の探求、制度改革、審査と解任、あるいはそれらの組み合わせが含まれるかもしれないと指摘している。
なお、ここで国連がいう「正義」は、「権利の保護・擁護、過ちの防止・処罰における説明責任と公正さの理想」と定義されている。別言すると、「正義が意味しているのは、被告人の権利、被害者の利益、社会全体の幸福を尊重するということだ」としている。いずれにしても、「移行期正義」を司法制度に関連づけて理解しようとしている点に留意してほしい。
他方で、洪恵子著「移行期の正義(Transitional Justice)と国際刑事裁判」によれば、冷戦後、国際社会の関心が暴力や人権侵害が再び繰り返されないような社会への脱皮を支援するというかたちで変化しており、こうした社会の変化という方向性を強調しているのが「移行期の正義」という概念である、という。洪は、「現在では、移行期の正義とは、旧政権時代に行われたことに対して新生の民主的政権がどのように対応すべきか、換言すれば法の支配を確立し、人権が尊重される社会を作るための様々なメカニズム(または道具[tool])を示し、またそれらに関する議論の枠組みを意味している」とのべている。
洪の場合、「移行期の正義」を司法制度だけでなく、政治的な関係をも含んだかたちで論じようとしているようにみえる。こうした概念を移行期正義に適用すると、その関心はもっぱら中南米や東欧での独裁政権とその崩壊後における移行にあてられている。その典型が国連大学出版部によって2012年に刊行された『圧制の後で:中南米と東欧における移行期の正義)』(After Oppression: Transitional Justice in Latin America and Eastern Europe)であろう。
報告書「復讐と忘却の間で」
このように、非民主的政権から民主的政権への移行に伴って、非民主的政権下での行為について、新しく誕生した民主的政権下でどう対応するべきかという正義にかかわる問題が「移行期正義」として語られることが多かった。しかし、この問題は、同じ民主的政権のもとでの政権交代に際しても不可避の課題であることがジョー・バイデン政権からドナルド・トランプ政権への移行によって明らかになりつつある。そこで、この政権移行時にどんな問題が生じようとしているかについて後述するが、その前に、これまで論じられてきた「移行期正義」についてもう少し説明したい。新しく生じた米国での政権移行にも適用できる視角を得るためである。
そこで参考になるのが2020年10月に公表された、ロシア語の厖大な報告書「復讐と忘却の間で:ロシアにおける移行期正義の概念」である。これは、2020年10月10日にニコライ・ボブリンスキーとスタニスラフ・ドミトリエフスキーが共同で公表したものだ。報告には、ロシアにおける犯罪が制度的に罰せられないことが引き起こす法的課題に関する研究結果を提示されており、「移行期正義」における不利益な結果に対処するための措置が提案されている。
同報告書のなかで、とくに注目したいのは、「移行期正義は抑圧的な権威主義から民主主義への社会の変革のなかでしばしば現れる二つの極端、すなわち復讐と忘却の対極にある」という記述である。ここから、「復讐と忘却の間で」というタイトル名が決められたことになる。この第一の極端さが生じるのは、正義を長く奪われてきた被害者(あるいはその代弁者)が自らの手に正義を得て虐殺を行うときである。古典的例には、アルメニア人大虐殺の主催者や加害者に対してアルメニア革命連盟が行った「ネメシス作戦」、1956年のハンガリー蜂起時の国家保安機関員への街頭処刑、チャウシェスク夫妻の射殺などがある。これは、まさに復讐という極端を意味している。
第二の極端では、犯罪加害者は処罰されず、生存者はすべてを忘れるように促される。このような場合、無修正のまま刑罰を免れていることは新しい処刑人を鼓舞するのだが、社会は新たな形態で復活する傾向にある独裁政権に対する必要な「予防接種」を受けていない。例として含まれているのは、ポストソヴィエトのロシア、アゼルバイジャン、中央アジアの旧ソヴィエト共和国などである。
以上から、移行期正義は第一の極端(復讐)と第二の極端(忘却)との間において位置づけられるべきものということになる。
重要な論点としての「インピュニティ」
ここで論じている「移行期正義」は未来ではなく、過去の出来事に対してどう正義と向き合わせるかを問う。復讐と忘却の間のどこに移行期正義を位置づけるべきかが問われることになる。これを別言すると、刑罰を免れるという「インピュニティ」という概念をどこまで認めるかという問題にかかわっているともいえる。
インピュニティの概念は、「犯罪者を裁判(刑事、民事、行政、懲戒)にかけることが法的または事実上不可能であることを意味し、そのような人物については、起訴、逮捕、裁判にかけられ、有罪が確定した場合には、犯した犯罪の被害者に適切な刑罰と補償が課せられる可能性のある手続き上の措置がとられていないことを意味する」と、報告書は指摘している。そこで、同報告書では、インピュニティを、「犯罪の加害者を起訴しない、および/または被害者の権利を回復するための賠償を行わないというかたちで、犯罪に対する法的対応が不十分なことをさす」としている。
インピュニティは、①法執行機関が犯罪を特定していない(犯罪学でいう、自然潜伏)、②法執行機関は犯罪に気づいたが、刑事事件の着手を不当に拒否(同隠れた犯罪)、③時効による刑事責任の消滅により、刑事事件の提起が拒否され、または終結、④刑事責任の対象となる者が刑事訴追からの免責を有しており、それを克服するために必要な条件が満たされていないことを理由に刑事手続が開始されず、⑤刑事事件が起訴されたが、犯罪者が特定されていないか、捜査から逃げた、⑥罪を犯した人が刑事責任から解放されたり、恩赦のもとで刑罰から解放されたりしている、⑦実際に罪を犯していない者が刑事責任を問われる――などのケースで発生する。
被害者側からみると、インピュニティは、①損害賠償の法的根拠なし、②時効の経過、③損害賠償が裁判所によって不当に拒否される場合、③法律で定められた補償、または裁判所が命じた補償が明らかに被害の性質に不釣り合いである場合、④犯罪者が特定されていない場合――といった場合に生じてしまう。
もちろん、国際刑事裁判所はこうしたインピュニティを克服する必要性を認めており、同裁判所は、管轄権を有する国が捜査を行っている(または起訴を放棄している)刑事事件であっても、その国が適切な捜査または起訴を行う意思がないか、または行うことができない場合には、その訴訟手続きを認めることができる。
問題は、インピュニティの適用を認めない基準として、侵略、戦争犯罪、人道に対する犯罪、大量虐殺といった国際犯罪だけでなく、国内の政権移行時のような場合にも何らかの措置が想定できないかという点にある。
時効
インピュニティを時効によって発生させないようにするためには、その見直しが課題となる。ロシアの場合、刑事訴追可能な期間は犯罪の重大性に応じて2年から15年で、テロリズム、人質の奪取、人類の平和と安全に対する犯罪には時効は適用されない。ただ、「移行期正義」の立場にたてば、時間的に吸収されない(時効のない)犯罪として、①国または公人の命を狙った行為、②司法を行う者または予審を行う者の生命に対する攻撃などを加えたり、さらに、汚職、公務上の犯罪を加えたりすることを検討すべきだろう。
圧政から民主政治への移行という「移行期正義」を広義に解釈すれば、民主国家で起きる政権交代期に前政権の「悪」が暴かれる可能性が高まる以上、前政権にかかわった大統領、首相、大臣などに時効とは無関係に「正義の鉄槌」を下せるように制度を整えることは当たり前のことではないか。その意味で、時効の見直しはきわめて重要である。
恩赦
恩赦もまたインピュニティを発生させる。恩赦法には、その法律が採択される前に犯した特定の犯罪(恩赦法でも指定されている)に対する責任や刑罰を免除される人のカテゴリーのリストが通常、含まれている。「移行期正義」の立場からすると、前政権下で、憲法上の人権・市民権・自由に対する例外なくすべての犯罪や、権力の流用・保持を目的とした犯罪行為にかかわった者が恩赦を通じてインピュニティとならないようにすることが求められる。
恩赦については、「トランプ2.0」になる前に、恩赦を発出し、将来の訴追に備える動きをバイデン大統領が実際にみせているので、この問題については、後述したい。
選挙
選挙期間中、全国各地で選挙管理委員会のメンバーが特定の政党に有利な投票結果の改竄を広く使い、警察が改竄を見て見ぬふりをし、捜査機関や司法機関が関連する苦情の検討を拒否するといった事態は権威主義的な専制国家などでよく見られる現象だ。あるいは、政治的敵対者に対する刑事事件を開始したり、無理やり逮捕したり、候補者登録名簿に収載させないといった方法も権力者側の常套手段である。さらに、既存の権力側が公的立場を利用して選挙集会への参加を強制したり、一部の政党や候補者の選挙運動を支援したり、他の政党や候補者の選挙運動や選挙資料の配布を妨害したりすることもある。
選挙関連のインピュニティ発生を抑えるためには、選挙結果に対する不服申し立て権の見直しが必要だろう。ロシアの場合、不服申し立て権は選挙に登録して参加した候補者および選挙人団にのみ帰属する。その申し立て期間は投票日から3カ月に限定されている。
「移行期正義」の枠組みでみても、選挙に関する不服申し立て権が無制限に認められることはないだろう。ただ、3カ月ではなく1年とすることは可能なはずだ。あるいは、選挙結果の取り消しを求める行政請求権を移行期の司法当局に認めるといった工夫はありうる。さらに、移行期正義の立場から、選挙後の新選挙管理委員会にも選挙不正の捜査を可能とすることも「あり」かもしれない。その際、デジタル時代に合ったソーシャルメディア関連支出の開示などの選挙関連法の改正も必要だろう。
「知られざる地政学」連載(69):「移行期正義」という視角(下)に続く
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1956年生まれ。一橋大学大学院経済学研究科修士課程修了。学術博士。評論家。一連のウクライナ関連書籍によって2024年度「岡倉天心記念賞」を受賞。 著書:(2024年6月に社会評論社から『帝国主義アメリカの野望:リベラルデモクラシーの仮面を剥ぐ』を刊行) 【ウクライナ】 『ウクライナ戦争をどうみるか』(花伝社、2023)、『復讐としてのウクライナ戦争』(社会評論社、2022)『ウクライナ3.0』(同、2022)、『ウクライナ2.0』(同、2015)、『ウクライナ・ゲート』(同、2014) 【ロシア】 『プーチン3.0』(社会評論社、2022)、『プーチン露大統領とその仲間たち』(同、2016)、『プーチン2.0』(東洋書店、2012)、『「軍事大国」ロシアの虚実』(岩波書店、2009)、『ネオ KGB 帝国:ロシアの闇に迫る』(東洋書店、2008)、『ロシア経済の真実』(東洋経済新報社、2005)、『現代ロシアの経済構造』(慶應義塾大学出版会、2004)、『ロシアの軍需産業』(岩波新書、2003)などがある。 【エネルギー】 『核なき世界論』(東洋書店、2010)、『パイプラインの政治経済学』(法政大学出版局、2007)などがある。 【権力】 『なぜ「官僚」は腐敗するのか』(潮出版社、2018)、『官僚の世界史:腐敗の構造』(社会評論社、2016)、『民意と政治の断絶はなぜ起きた:官僚支配の民主主義』(ポプラ社、2016)、Anti-Corruption Policies(Maruzen Planet、2013)などがある。 【サイバー空間】 『サイバー空間における覇権争奪:個人・国家・産業・法規制のゆくえ』(社会評論社、2019)がある。 【地政学】 『知られざる地政学』〈上下巻〉(社会評論社、2023)がある。