
【櫻井ジャーナル】2025.03.11XML: 80年前の3月に東京を焼夷弾で焼き尽くしたルメイはソ連への核攻撃を目指した
国際政治今から80年前の3月9日から10日にかけてアメリカ軍はB-29爆撃機から大量の焼夷弾を東京の下町、深川、城東、浅草などへ投下、地上は火の海になり、7万5000人から20万人の非戦闘員が殺された。逃げ場を失い、川の中へ入った人も少なくないが、小さい川では水が沸騰していたと言われている。その際、劫火に覆われた地上から1500メートルほど上空を飛行する爆撃機の乗員には、人間の肉が焼ける匂いが届いていたという。この爆撃を指揮したカーチス・ルメイ准将(当時)は大阪や名古屋を含む日本の諸都市を同じように空爆、大量殺戮を繰り広げた。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)
第2次世界大戦後の1948年にルメイはSAC(戦略空軍総司令部)の司令官になり、朝鮮戦争が勃発した50年6月から53年7月に休戦まで朝鮮半島でほ大規模な無差別空爆を展開した。その攻撃で朝鮮半島に住んでいた人の20%を殺したとルメイ本人も認めている。大戦中、アメリカ軍が日本へ投下したのは約16万トンだったが、朝鮮戦争で投下された爆弾は約63万5000トンだと言われている。
日本では1945年8月15日に天皇の声明が放送された。「玉音放送」とか「終戦勅語」と呼ばれているものだ。そして同年9月2日、重光葵と梅津美治郎が降伏文書に署名しているのだが、その前、8月30日にアメリカ陸軍のレスニー・グルーブス少将(当時)に対し、ローリス・ノースタッド少将はソ連の中枢15都市と主要25都市への核攻撃に関する文書を提出した。グルーブスはマンハッタン計画を統括していた軍人だ。
9月15日付けの文書ではソ連の主要66地域を核攻撃で消滅させるには204発の原爆が必要だと推計。そのうえでソ連を破壊するためにアメリカが保有すべき原爆数は446発、最低でも123発だとしているが、当時、アメリカはこれだけの原発を持っていなかった。1945年の終わりに2発、46年6月末に9発。1947年11月の時点でも13発、しかも完全な爆弾は7発にすぎなかった。計画の立案者は原爆の生産能力を知らなかったのだ。(Lauris Norstad, “Memorandum For Major General L. R. Groves,” 15 September 1945)
グルーブス少将は1944年、マンハッタン計画に参加していたポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、その計画は最初からソ連との対決が意図されていると語っている。1945年8月6日に広島へ、また8月9日に長崎へ原子爆弾を投下したのはソ連を意識してのことであり、同月30日にノースタッド少将がソ連への核攻撃に関する文書を提出したのは必然だったわけだ。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)
そもそもドイツ軍が1943年2月にスターリングラードで降伏した時点でドイツの敗北は決定的だった。米英両国の首脳は同年5月に慌てて協議、7月にシチリア島上陸作戦を敢行した。ハリウッド映画で有名なノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月になってからだ。いずれもソ連を意識しての作戦だろう。
ウィンストン・チャーチル英首相よりソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンを信頼していたフランクリン・ルーズベルト米大統領が1945年4月に急死、5月にドイツは降伏する。その直後にチャーチルはソ連に対する奇襲攻撃を目論み、アンシンカブル作戦が作成された。7月1日にアメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始めるというものだったが、イギリスの参謀本部がこの計画を拒否したので実行されなかったという。
チャーチルは1945年7月26日に辞任するが、46年3月にアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行って「冷戦」の開幕を宣言、その翌年にはアメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めている。
1951年4月にもチャーチルはソ連を核攻撃するという考えを口にしている。自宅でニューヨーク・タイムズ紙のジェネラル・マネージャーだったジュリアス・アドラーに対し、ソ連に最後通牒を突きつけ、それを拒否したなら20から30発の原爆をソ連の都市に落とすと脅そうと考えていると話していたことを示す文書が発見されたというのだ。
こうした核攻撃計画に日本も巻き込まれている。1950年代に沖縄の軍事基地化が進んだのはそのためであり、核兵器が持ち込まれるのは必然だった。沖縄のアメリカ軍基地は攻撃のためのもの。1955年から57年にかけて琉球民政長官を務めたライマン・レムニッツァーはカーティス・ルメイややアレン・ダレスと同じように、ソ連に対する核攻撃に積極的な人物だ。
そうした好戦派は1957年初頭にソ連を核攻撃する目的で「ドロップショット作戦」を作成、テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、攻撃は1963年後半に実行されることになっていた。そこで好戦派はソ連やキューバによるアメリカに対する攻撃を演出する偽旗作戦を立てる。ノースウッズ作戦だ。
しかし、この作戦をケネディ大統領は拒否、レムニッツァー議長の再任を拒否する。通常、そのまま退役するのだが、この時は違った。イギリス軍のハロルド・アレグザンダー元帥がレムニッツァーに対し、欧州連合軍最高司令官にならないかと声をかけてきたのだ。アレグザンダーはシチリア島上陸作戦以降、レムニッツァーを出世街道へ乗せた人物。イギリスの貴族階級で、イギリス女王エリザベス2世の側近として知られている。
また、ソ連との平和共存を訴えていたケネディ大統領は1961年11月にはCIAのアレン・ダレス長官やリチャード・ビッセル計画局長を解任、62年1月にはチャールズ・キャベル副長官もCIAから追い出したが、1963年11月22日にダラスで暗殺された。その翌年、ルメイは勲一等旭日大綬章を授与されている。
**********************************************
【Sakurai’s Substack】
**********************************************
【Sakurai’s Substack】
※なお、本稿は櫻井ジャーナルhttps://plaza.rakuten.co.jp/condor33/
「 80年前の3月に東京を焼夷弾で焼き尽くしたルメイはソ連への核攻撃を目指した」(2025.03.11XML)
からの転載であることをお断りします。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202503110000/
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
★ISF(独立言論フォーラム)「市民記者」募集のお知らせ:来たれ!真実探究&戦争廃絶の志のある仲間たち
※ISF会員登録およびご支援のお願いのチラシ作成しました。ダウンロードはこちらまで。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202410130000/
ISF会員登録のご案内