
パンデミックのプロパガンダとカントの定言命法
社会・経済社会が道徳的であり、倫理的であるためには理性に導かれた合理的な判断を下す能力が全ての人に要求される。「理性」とは、感情に左右されることなく論理的に物事を捉え、判断し、行動する能力を一般に言う。すなわち、理性とは、道徳的判断を下し、善行を実践する能力でもある。
いずれの場合においても、多くの政治家がワクチン接種者数の目標を設定し、機会あるごとに接種回数を繰り返し発表していたことから、「プロパガンダ」の文脈ではワクチンの効果よりも接種回数が優先されたことは否定できない。 現実問題としてこのようなプロパガンダを論理的かつ倫理的に拒絶することは極めて困難である。何故なら、このようなプロパガンダがどのような原則(定義や基準)に基づいて使用されているのか、我々一般人の視点からすれば皆目見当もつかないからである。すなわち、政府や医学界は社会基盤となる道徳的・倫理的枠組みを社会に提示することができておらず、それ故に、我々の視点には政府や医学界が漠然とした雰囲気(社会構造)の中で漂っているようにしか見えないのである。
この曖昧な雰囲気こそが我々にとってこのプロパガンダを道徳的に捉えることを困難にさせ、道徳的な見地からプロパガンダを拒絶できない主な理由の一つとなっている。そして、多様性を受け入れる今日の社会の中で、我々は倫理的・道徳的な観点を常時意識して生活しないため、このような根本的な問題を認識する機会すら逃している。
本稿では、「思いやり(第三者のため)」という概念に焦点を当て、過剰なプロパガンダに対する倫理的な反論手段として「カントの定言命法」を提示する。さらに、日本の観点から、そのようなプロパガンダの根底にある政策決定が倫理的、道徳的に妥当であるかどうかを検証する。本稿が読者の皆様にとって有益な洞察を提供することを願う。
「思いやり」は表面的には道徳的な響きを有しており、相利共生を1つの伝統思想とする日本文化に調和する。しかし、「思いやり」は飽くまで人間の一つの感情であり、人間の感情だけでは道徳的な社会基盤にはなり得ない。
例えば、「理由を欠いた思いやり」は「誤った親切心」や「押し付けがましい思いやり」であり、短期的な感情的衝動に駆られた誤った決定を招き、社会的圧力を助長し、権力の乱用を可能にし、結果として社会の道徳的退廃を加速させる。一方で、「思いやりを欠いた理性」は「冷徹な合理主義」につながり、これだけに基づいて構築された倫理的枠組みは、共感性や人間性を欠いた冷淡で無感情な社会を作り出す。
それ故に、道徳的な社会基盤を築くには、理性が思いやりを導き、思いやりが理性を補完する関係を築くことが重要である。「理性を欠いた思いやり」が主導する社会は、感情に支配された社会となり、理性が崩壊した不道徳な世界になる。それがまさに、我々が今日目撃している世界なのかもしれない。
政府や医学界は「ワクチン接種」という「目的」を達成すべく「思いやり」という「プロパガンダ」を掲げ、「人」を「手段」として利用し、ワクチン接種を道徳的義務と見做す社会的風潮を醸成した。言い換えれば、彼らは「思いやりがあるならワクチン接種を受けるべきだ」という強制的な社会的物語を構築した。これとは反対に、彼らは潜在意識レベルで逆の意味合いも利用し、「ワクチン接種を拒否する人は思いやりに欠ける」という観念を社会に植え付けることに成功した。
その結果、公共の場では感情的なプロパガンダが理性的な議論よりも優先され、個人の理性的な判断を無視する社会的な同調圧力が助長され、同時に代替的な科学的視点を提示する議論が抑圧された。このパンデミックのプロパガンダの多くは、カントの定言命法と真っ向から矛盾する論理に基づいて展開された。しかし、その不安を掻き立てる内在的な一貫性は、政府と医学界が、意識的であろうと無意識的であろうと、自らの行動を正当化するためにカントの定言命法を選択的に利用(或いは悪用)したことを示唆している。従って、このようなプロパガンダに対抗するには、カントの定言命法に基づいた論理的に首尾一貫し、倫理的に根拠のある議論が必要不可欠であった。
■第1の定式化: 普遍的法則の定式 「汝の意志の格率が、常に同時に普遍的な法則として成立し得るように行動せよ。」
■第2の定式化: 人間性の定式(目的としての人間)「汝の人格、ならびに他の全ての人格における人間性を、単なる手段としてではなく、常に同時に目的として扱うように行動せよ。」
■第3の定式化: 自律の定式(または目的の王国) 「全ての合理的存在者は、自らの意志の格率によって、普遍的立法者であるかのように行動せよ。」
つまり、カントの定言命法は、以下の3つの重要な定式化を我々に提示している。
(1)我々の行動が社会に普遍的に適用された場合に道徳的な問題を引き起こさないかどうか。
(2)我々の行動が他者を単なる手段としてではなくそれ自体を目的として扱っているかどうか。
(3)我々が推論と意思決定においてこれらの原則を一貫して適用しているかどうか。
現実には、多様な価値観を抱く現代人にとって、カントの定言命法を完全に理解することは困難である。仮に理解できたとしても、我々の倫理的な判断は主に以下の要因によって阻害される。
(A)個人の権利よりも社会全体の利益を優先する「ベンサムの功利主義」
(B)道徳を相対化する「ポストモダン的な価値観」
(C)感情的な物語によって理性的な言説を蝕む「マスメディアの影響」
特に、日本では西洋文化が広く受け入れられ、神道、仏教、儒教、キリスト教など多様な宗教が社会構造に深く織り込まれているため、カント倫理学は浸透し難く、その妥当性を大きく失っている。
これらの価値観は、短期的には豊かな文化を育むが、これらが長期的に追求される現代社会においては、それらのプラス面とマイナス面のバランスが崩壊し、特にマイナス面は無視できない水準に達している。すなわち、現代社会における多様な価値観(特に人間の本能や利己心)は、道徳的・倫理的枠組みを容易く覆い隠し、その結果、大衆による合理的な判断はほとんど期待されなくなっている。
現代社会では、個人の自由意志を尊重するカント倫理学は、社会全体の利益を優先する功利主義と衝突する。功利主義は倫理的な指針として機能するが、国家が法律と暴力によって国民を管理する政治体制を基軸とする「全体主義」とは概念的に異なる。功利主義は、社会全体の利益と福祉の促進を図るため、民主主義(および資本主義)とより調和する。
確かに、今回のパンデミックに際して政府や医学界が採用した政策には「全体主義」の側面が見られるものも少なくない。しかし、日本は戦後、「民主主義(および資本主義)」を基調とした憲法・法律制度を整備してきたため、私はこの問題を「民主主義(および資本主義)」と「全体主義」の対立であるとは捉えていない。むしろ、私はこれを「倫理の普遍性(カント倫理学)」と「功利主義」の対立であると捉えている。
功利主義では、短期的にも長期的にも集団の利益が優先される。そのため、パンデミックのような危機的状況では、「個人の権利よりも公共の福祉を優先する」という論理が顕著になる。しかし、その過程で「個人を単なる手段として扱うこと」が正当化されるため、倫理的な問題が必然的に生じる。
この時点で、多くの人は、「他者の利益のために自己犠牲を払うこと」を容易に受け入れるため、「自立した個人として尊重されていない」という本質的な問題に気が付くことはない。その結果、多くの人はこれを非倫理的であるとは考えず、高潔な行為だと誤信し、連鎖反応でそれを正当化する。
カント倫理学によれば、個人の自由意志は尊重されなければならない。たとえ、その政策が社会全体の利益を目的としたものであっても、個人を単に目的達成の手段として扱う政策は正当化されない。なぜなら、人間は奴隷や実験台ではなく、自律的な存在だからである。
こうした事実を踏まえると、パンデミックに際して政府や医学界が「功利主義的な立場」を採用し、「思いやり」という感情的な枠組みでワクチン接種を正当化したことは「非倫理的な行為」と言わざるを得ない。感情は本来的に社会における普遍的な法則や倫理的枠組みにはなり得ない。感情に支配された社会は理性が崩壊した社会である。
大前提として、我々は国家や第三者によって「手段として利用される権利」はなく、「自律した存在として尊重されるべき個人」であるということを強く認識しなければならない。 日本国憲法には「個人の尊重」(第13条)という条項があり、そこでは「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と規定されている。
この条項は、個人の尊重と公共の福祉(公共の利益)とのバランスを両立する必要性を示しており、これはカント倫理学と功利主義の対立を反映していると考えられる。すなわち、第13条の「すべて国民は、個人として尊重される。」という文言はカント倫理学に即している。一方で、「公共の福祉に反しない限り」という文言は功利主義を反映しており、社会全体の福祉(公共の利益)を優先させる場合には個人の権利が制限されてもよいことを示している。
パンデミックのような危機的状況は、個人を手段と見做す「功利主義」を採用する好機、或いは口実と見做される可能性がある。この文脈で、過度の功利主義が個人を単なる手段であると見做すことを正当化すれば、憲法に違反する可能性がある。この可能性を排除するため、政府はワクチン接種予定者に署名入りの「ワクチン接種希望書」の提出を求めている。
ここで重要なのは、これが実際に憲法に違反するかどうかではなく、たとえ政府が個人の尊重と公共の福祉を両立させたとしても、「我々は個人として尊重されず、手段として扱われている」という事実は変わらないということである。「ワクチン接種希望書」は、政府や医学界が個人を手段として利用するための許可を個人に求める「許可証」である。この感情は、自らの自律性が侵害されたと感じ、最初から「ワクチン接種希望書」を破り捨て、ワクチン接種を頑なに拒否し続けた人々の間で特に強いかもしれない。
「ワクチン接種希望書」という単なる紙切れ一枚で、個人が手段ではなくなり、目的に変わるわけではない。ワクチン接種を拒否した人たちは「手段として扱われること」を拒否し、自らの主体性を主張した人たちである。 政府や医学界は、パンデミック時には「公共の福祉」の名目のもとに強硬策を正当化したが、平時には個人の権利を重んじるかのように振舞う。彼らは、自らの目的に適う「証拠に基づいた医療(EBM)」を選択的に推進し、都合の悪いデータは無視し、或いは抑圧する。彼らは、自らの誤りを認めず、都合のよい解釈を押し通す。
これらの問題は、明確に述べられれば明白であるが、当然のことながら彼らはそれを国民に明確に伝えるほど親切ではない。その結果、彼らの発言を額面通りに受け取り、その根底にある意図や目的を疑わない人々にとっては、彼らの行動は一貫したイデオロギーに基づく根拠のある決定のように見えるかもしれない。
このように、政府や医学界は、自らのイデオロギーをあたかも普遍的な道徳原則であるかのように我々に提示する。しかし、彼らの実態的な道徳観は状況に応じて変化し、真の普遍性を欠いていることを露呈させている。この矛盾は、権威主義、経済的利益相反および政治的利用という3つの主要な要因に起因している。
権威主義、経済的利益相反および政治的利用は、道徳的原則ではなく「人間の本能」、特に「利己心」によって推進される。歴史を通じて、人間の本能が道徳的および倫理的概念に優先される場面は数多く見られる。権力者にとって最大の懸念は、国民の反発であり、それ故に彼らは自制しているように見せかけざるを得ない。
この問題に対処するための彼らの都合のよい解釈が、形式的な道徳原則である。彼らの道徳的枠組みは、彼らと一般大衆を隔てる段階的な境界として機能する。言い換えれば、政府と医学界は、自らの利益を守るために独自の倫理的枠組みを構築し、それをあたかも普遍的な倫理であるかのように我々に提示する。これにより、彼らは自分たちの特権を強化しながら、国民の同意があるという幻想を作り出す。従って、彼らが支持する倫理は真の倫理原則ではなく、彼らの権威と利益を維持し、正当化するための単なる手段である。
政府や医学界には一貫した倫理観はなく、唯一存在するのは「身内だけに適用される特殊な掟」である。このような「掟」は「一般人に共有されない特別な死生観」の域を出ることはないが、一般大衆がこのような掟に遭遇すると、それをあたかも高尚な道徳原則であると誤信する。
しかし、明確な定義のない倫理や道徳は単なる「言葉遊び」に過ぎない。明確に定義された原則がなければ、倫理や道徳は都合の良い解釈や恣意的な適用を受け易くなり、それ故に道徳的正当性を装った権力行使の口実となる危険性がある。
我々は、政府と医学界が社会活動のために真の道徳的、倫理的枠組みを我々に提示していないことを強く認識する必要がある。同時に、我々は、政府と医学界が崇高な道徳的、倫理的原則に基づいて活動しているわけではないことも認識する必要がある。
あなたは、以下の行動が普遍的な原則として世界で運用されることを許容できるだろうか?
・「思いやり」を口実に医療を推奨する
・自身が少数派である可能性を排除せずに多数派の幸福のために少数派を犠牲にする
・漏洩リスクを排除せずに機能獲得実験を許可する
・規制当局と製薬会社の利益相反を許容する
・政府が医薬品の購入を独占する
・政府が製薬会社に公的資金を投入する
・政府が製薬会社に予測可能性の高い投資計画を提供し、自由市場の原則を乱す
・政府が製薬会社との契約を開示しない
・政府が医薬品の安全性研究に干渉する
・実験不十分な遺伝子製剤をワクチンと称して社会に導入する
・ワクチン接種のメリットが健康被害のデメリットを上回ると主観的に解釈する
・PCR陽性反応を感染と定義する
・不都合なデータを収集しない
・不都合なデータを隠蔽する
・予防医学で健康被害を引き起こす
・製薬会社に利益を超える損害を課さない
・治験でデータを恣意的に操作する(期間の省略や被験者の意図的な除外等)
・治験で生理食塩水以外の薬剤をプラセボと称して使用する
・そのようなプラセボと比較して医薬品の安全性を評価する
・治験の被験者が被った健康被害に対して製薬会社に民事的、刑事的な責任を課さない
・薬事承認後に医薬品の未調査の長期的な安全性と有効性を調査する
・医師によるメディアでの医薬品の宣伝
・専門家の便宜を図るために規制を緩和する
・mRNAワクチンにおける残留DNAや残留dsRNA等の汚染物質をLNP(脂質ナノ粒子)に封入して体内に導入する
・LNPに封入されていない残留DNAに対する従来の規制限度を、LNPに封入された残留DNAに適用する
・残留DNAの測定法として残留量を常に過小評価するqPCRの使用を許可する
・残留DNAの正確値を証明する責任は製薬会社にあるが、これを第三者に転嫁する
・製薬会社の責任を問うことなく、第三者による検証行為を批判し、検証負担を転嫁する
・潜在的な危険性を軽視する
・研究者の資質を人格や人間性の観点から評価しない
・論文の査読中に査読者の政治的なイデオロギーを反映する
・再現不可能な研究に関する論文を査読済みとして出版する
・捏造論文の著者に民事的、刑事的な責任を課さない
・これらの行為の少なくとも1つを自国ではなく他国に課す
ここで語るには問題が多過ぎるが、これが「カントの定言命法」に基づいて行為を普遍化することであり、現代社会ではこれらの行為が倫理的であると見做される領域が存在する。
私は、これを理解できない人たちとは、たとえ世界、国家、文化を二分することになったとしても別れる覚悟はできている。実際、パンデミック中に私が失った所謂友人と呼べる人たちは、これを理解できなかった人たちだった。
理想と現実は異なるかもしれないが、私は自分の理想を追求する自由を持っている。一方、彼らにはそうする自由も勇気もない。彼らは他人にどれだけ束縛されているかで自分の価値を測るが、私には自分の価値を自分自身で決める自由がある。彼らに自由はないが、私にはある。
これから、政府や医学界のプロパガンダに対して我々一般国民に喫緊に求められていることは、そのプロパガンダを断固として拒否できる論理的一貫性を備えた普遍的な倫理的・道徳的枠組みである。
これには、「理性に基づく自由意志の尊重」と「社会的同調圧力への抵抗」に根ざした論理、そしてこれらの原則を将来の世代に伝えるために必要な教育が含まれる。そして、これを達成する一つの方法は、カント倫理学を受け入れることであると私は信じている。
我々は政府や医学界の言葉を鵜呑みにせず、自らの理性に基づいて倫理的判断を下さなければならない。カント倫理学は、SARS-CoV-2のパンデミックに限らず、あらゆる状況において、個人の尊厳を守るための普遍的な指針になる。歴史を振り返えれば、国家が「公共の利益」を口実に個人の自由を侵害した例は数多く存在する。そのたびに社会は倫理的な過ちを犯して後悔している。
我々は同じ道を辿ってはならない。倫理なき社会に自律的な自由はない。だからこそ、我々は理性で武装し、倫理的に正しい選択を追求し続けなければならない。これは、我々一人ひとりが自ら考え、行動することでのみ実現される。