【対談】寺脇研(元文部官僚)×木村三浩(一水会代表):マスコミが繰り返す「日韓関係戦後最悪」の嘘
政治・政治問題を文化交流がこじ開けた
寺脇:尹大統領の言うとおり、金大中・小渕恵三の日韓共同宣言は、両国の関係を前進させた大きなポイントといえます。そこから少なくとも鳩山首相までの時代は、さまざまな交流が行なわれていました。問題はその後です。
そこで、まずは近年の日韓関係をさかのぼってみていく必要があると思っています。小渕首相の時代、日韓文化交流会議がつくられ、両国の文化人が3年間ほど議論し、まず文化による交流を進めました。小渕・小泉時代はそれが成功し、小泉首相は靖国参拝をする一方で、韓国との外交そのものは積極的でした。私が日韓文化交流に関わっていたのがそのころです。
日韓文化交流会議とは、1回目が小渕政権の1999年(〜2002年)、2回目が小泉政権の2004年(〜2007年)、3回目が鳩山政権の2010年(〜2012年)に、それぞれスタートしています。それが、2012年以降は途絶えてしまった。さらに小泉政権の2002年には歴史共同研究も始まり、1回目が2002年(〜2005年)に行なわれました。2回目は福田政権の2007年(〜2009年)。これも、やはり途絶えています。
そして現在、「戦後最悪の日韓関係」という言葉がマスコミで繰り返されています。鳩山首相退陣から悪化したのは事実ですが、「最悪」とは何を指しているのか。金・小渕の前の日韓関係がどうだったかが忘れ去られています。
実は、日韓共同宣言より前の韓国側の日本に対する認識とは、「憲法9条など信用ならない。あいつらはいつ戦争を仕掛けてくるかもしれない」と言われる有様でした。本来、ニュートラルな立場にいなければいけない私でも、気に障ることがありました。もちろんそこには、刷り込みのようなものがありました。日本人も、韓国は軍事独裁の権威主義的な国だと刷り込まれていた。その理由は、文化交流がなかったことに尽きます。韓国政府は1998年まで日本文化を排除していました。
当時こそ、最悪の関係だったと私は思っています。いま、新聞やNHKまでが「最悪の日韓関係」と言うのは新たな刷り込みといえるでしょう。
木村:いま指摘された2012年以降の空白の10年間は、第二次安倍政権と重なりますね。
一方、韓国では20年前の盧武鉉政権が、日本の植民地支配について清算を求めました。しかし、だからといって、当時の日韓関係が最悪だったかといえば、寺脇さんが文化交流に触れられたように、決してそうはならなかった。李明博・文在寅大統領も竹島に上陸しています。それらは小泉首相が靖国参拝をしたのと同じで、国内向けのパフォーマンスにすぎなかった。
とくに李大統領は、日韓協力委員会の清水信次氏と親しく、清水氏は日韓協力に資したとして勲章を授与されています。彼は私に、日韓関係について、「いろいろあるけど、それはそれとして、日韓は仲良くしなければいけない」とおおらかに語っていました。その姿勢は両国の民主的成熟といえたのではないかと思いますね。
寺脇:金大中大統領が最初に扉を開けた日本文化開放とも流れが一致しますね。1998年の第一次開放は映画だけでした。しかも、カンヌなど世界的に賞を獲った作品に限るというようなかたちです。文化開放は国内の反発があるために段階的に進められ、全面開放したのが2004年、盧武鉉政権です。
木村 まさに、清水氏の言う「それはそれ」だった。
寺脇 この全面開放でも、韓国ではかなりの反対運動が起きた。反対の世論には2種類あり、年配層はナショナリズム的な意味での反対論。同時に、比較的若い人は、日本文化によって文化産業が支配されると考えた。要するに、みんな日本のアニメばかり観るようになるんじゃないか、ということです。しかし盧武鉉大統領は「韓国は日本に敗けない」と決断した。実際、日本で韓流ブームが起き、定着するのです。
歴史問題にからみ国内向けの政治パフォーマンスをしつつも、文化・経済交流については決して扉を閉ざさない。それは両国の政権がお互いに理解できていたのでしょう。私のカウンターパートだった韓国の役人もそういう態度でした。大統領や首相に歯向かうわけでも、忖度するわけでもありません。ところがいまは、「韓国側と仲良くするとウチの総理大臣が怒るだろう」。あるいは「大統領が気分を害するだろう」と忖度が繰り返されているのです。
・日韓ワールドカップと嫌韓
木村:日韓関係「悪化」のきっかけとして挙がるのが、2002年の日韓共同サッカーワールドカップです。これを境に、いわゆる「嫌韓本」などが出版されるようになったといわれています。
寺脇:たしかに嫌韓本が出たのはその時期ですが、私はそれ以前に嫌韓本がなかったことに、より注目すべきだと思います。つまり、嫌韓本なんかわざわざ出す必要もないぐらい、「最悪」であることが自明だったのです。それが良化するときに、カウンターとして出てきたのが嫌韓です。1998年以前は、韓国をこき下ろすような本は、あったとしても一般書店の平台に積んであるようなものではなかったんですよ。
木村:保守派の論客として知られる元サウジアラビア大使の岡崎久彦氏は、慰安婦問題などで韓国の方針を批判する一方で、軍事独裁といわれた朴正煕大統領に対して高い評価を下し、「東洋のドゴール」とまで表現した。質素・倹約の人格だけでなく、政治姿勢についても、当時の韓国をまとめるために高い指導力を発揮したとしている。日本が彼を育てたように言いたいのかもしれないが、ある種の客観的な評価を下していたと私は思います。
その時代を経て、1998年、金大中大統領以降の韓国は、きわめて民主的な国家となりました。日本がGHQ支配の下で民主主義を与えられたのと比較して、対北朝鮮がありましたから、民主・民族・ナショナリズムを、独自に獲得したといえるでしょう。
寺脇:私自身、文化庁で韓国との交流を担当するまでは、1980年の光州事件に象徴される独裁政権の印象を強く持っていました。そこから韓国について学ぶにあたり、役立ったのが韓国映画です。映画は本当にその国のことがわかるツールだと思いますが、たとえば「チャンピオン」というボクシング映画があります。1988年のソウルオリンピックに至る経済成長期が舞台ですが、1955年生まれの主人公は浮浪児です。東京オリンピックが華やかに行なわれた1960年代、韓国には浮浪児がたくさんいた。そんな時代から急激に、日本に追いついた。そういう日韓のギャップを知ることができたわけです。
日韓ワールドカップの話が出ましたが、そもそもこの大会自体、日本でやるか韓国でやるのか、揉めた経緯がありました。主催のFIFA(国際サッカー連盟)は追いはぎ集団のようなところで、両方からカネやモノを獲るわけです。一説には誘致に向け、日本はトヨタの最高級車を幹部全員に贈った。すると、韓国はクルーザーを一台ずつ贈ったといわれています。FIFAとしては、どちらかに決められなくなってしまった。それが共催となった一因のようです。
さらに私自身の経験から証言すると、FIFAは開催前年の段階で「主催関係者の税金ゼロ」を要求しています。つまり、審判などへの報酬を非課税にしろというわけです。私は文科省の税制担当で、交渉担当から話が来たときには呆れるしかありませんでした。
木村:徴税権とは、国家の主権にかかわる話ですね。
寺脇:もちろん財務省が良しと言うわけがありません。するとFIFAは、「韓国はそれを飲んだ。じゃあ韓国の単独開催にするか」と脅すわけです。韓国にも「日本は飲むだろう」などと言っていたかもしれません。結局、国会議員が議員立法する形で強行されました。こうして日韓共催に、私は身をもって欧米のやりたい放題を見たわけです。
木村:西側は自分たちの利益のためには戦争もさせる。アジアが使われるのは、もう懲りるべきですね。そこにこそ「新大アジア主義」の目的があります。北方領土にしても、米軍基地が置かれることをロシア側は問題にしている。仲違いの条件を、線路の置き石のように置かれている。西側の分断統治の材料です。
竹島もその一つでしょう。昔の右翼論客で、自民党副総裁でもあった川島正次郎などは「日韓の反共を強化するためには、竹島は爆破したほうがいい」と言っていた。反共はともかく、戦略的に竹島に拘泥すべきではなく、置き石を爆破して、日韓関係を強化すべきと言っていたのです。
そういう意味においては、マスコミが言う「戦後最悪の日韓関係」も、まったくの嘘であり、暗示にかけられていることを暴かなければならない。新大統領が投げたボールを受け取らなければならないのでしょう。
・政治が閉ざした日韓関係を文化で再び開く
寺脇:文化の面でいえば、先述のように、1998年まで韓国では日本文化が前面禁止されていた。その状況をこじ開けたのは政治の力です。その結果、韓流ブームが起こり、日本文化も韓国に広まった。今では韓国人と日本人が一緒になって映画や音楽の事業をやっている。その歴史を再確認すべきです。ところが今度は、民間の交流はあるのに、政治の方が門戸を閉じている。
木村:もうひとつ、歴史に基づく交流もひとつの方策であろうと思います。紙の爆弾でも触れてきましたが、私は天木氏とともに、豊臣秀吉の朝鮮出兵における韓国の犠牲者の耳塚・鼻塚供養を進めています。ここで知ることになるのが、秀吉の路線を批判した徳川家康の「元和偃武(げんなえんぶ)」です。武器を収め、平和を重視すべし。その方が互いに利益を図れるのだという大局観です。
寺脇:耳塚・鼻塚供養も、文化的行為であり、政治的なものとは一線を画す方法といえますね。
木村:お互いが鎮魂することが重要でヘイトからは何も生まれないのです。
寺脇:韓国にも反対勢力はいるのでしょうが、その状況を変えるのも、やはり文化的行為によるのだと認識しています。
韓国で2004年、日本で2006年に公開された日韓協同製作の映画「力道山」。力道山は北(朝鮮)の出身。韓国のソル・ギョングという一流俳優が必死で日本語の訓練をし、肉体改造もして主役をつとめました。その少し前まで、韓国の俳優が日本語を話す役を演じれば、国内で「お前は親日派だ」と白眼視されるものでした。彼と会って話を聞くと、「親日」と言われるのも覚悟していたそうですが、その演技は韓国内でも評価されています。
一方、その前年に「青燕(あおつばめ)」という、韓国人初の女性飛行士の映画が製作されています。戦前の話で、韓国の貧しい少女が「飛行機乗りになりたい」と言って日本に向かい、差別を含めた困難を乗り越える話です。私は文化庁として、これは応援しなければと、日本ロケに協力しましたが、残念ながら日本では劇場公開されませんでした。しかし翌年の「力道山」は、日本でも東宝で公開されて話題を呼んでいます。そして「青燕」も、現在はネット配信されているようです。
木村:政治が閉ざした日韓関係を、今度は文化でこじ開けなければならない。同時に、今の「戦後最悪」というワードによる、政治的な謀略を打破していくべきでしょう。
(月刊「紙の爆弾」2022年7月号より)
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株式会社鹿砦社が発行する月刊誌で2005年4月創刊。「死滅したジャーナリズムを越えて、の旗を掲げ愚直に巨悪とタブーに挑む」を標榜する。