宮古島の反基地闘争の現況
琉球・沖縄通信・2021年から22年にかけて何が変わろうとしているか?
年明け早々、沖縄県のコロナ感染状況の爆発的な拡大は米軍基地内で働く日本人労働者が基地内で感染することで始まった。この米軍基地由来の感染拡大は、改めて日米地位協定がいかに沖縄県民に(だけではなく日本国民に対しても)不利益をもたらしているか、を明らかにした。
検査なしの入国、マスクなしの基地外への外出、基地周辺での複数人での飲食など、日本国内の感染対策基準を無視した対植民地的感覚での傍若無人な米軍の振る舞いに沖縄県民は改めて怒りを覚えるが、その事態に対処できない日本政府、この差別的な日米地位協定の改定に本気にならない岸田政権も同罪である。
このCOVID-19発症の大元については断言できないが、多くの社会的弱者が辛酸をなめているこの事態を最大限利用して、大儲けしている勢力が今の資本主義経済構造の中に存在している。ワクチン、薬剤という医療分野だけではなく、通信・SNS分野、軍需分野等々である。パンデミックの危機を煽り、情報統制・言論統制を行い、国家安全保障体制をコントロールして政策と「金」を操り、この社会の行方を方向付けている。
国民生活の日常に及ぶ介入と世論操作、年末の新聞・テレビを使った「台湾有事報道」、年明けから続く「北朝鮮による弾道ミサイル発射実験報道」には、防衛省予算と米軍への「思いやり予算」の増額=軍拡と憲法の明文改憲への国民の意識誘導の意図が見え透いている。
・沖縄県宮古島はどのような島か?
北緯24度、隆起サンゴ礁の島、人口5万5000人の宮古島には山も川もない。川がないので、生活排水が海に流れ出ない分、サンゴ礁が発達して海は素晴らしく美しい。
伊良部大橋が2015年1月架橋完成、近年観光の島としてますます賑わいを見せている。
島の中央部に小高い野原岳(標高約110m)があるが、これは隆起した断層帯である。宮古島は沖縄県下で最も活断層の多い島である。地震も多い。地下に水脈が流れている世界でも稀有な地形の島である。飲料水は地下水。農業用水も地下ダムで地下水をせき止め、くみ上げて使っている。地下水の汚染は島の命運に関わる。
この小高い野原岳には沖縄戦の最中、宮古島に駐屯した3万人の日本兵の司令部があった。九州や台湾に疎開している人を除いて5万人の島に3万人の日本兵がやってきた。1944年10月10日、米軍艦載機によるいわゆる「十・十空襲」を受け、飛行場、港、民家などに被害が出て、町は焼け野が原になった。45年1月には島内への爆撃が本格化すると、空も海も封じられて、宮古島は飢餓の島と化した。爆撃で亡くなった人よりずっと多くの住民、兵士が飢えや病で亡くなった。
女性、子供、老人までもが昼夜をかまわず軍の空港建設に動員され、土地を強制的に取り上げられた人々の移住先では食料も医薬品もなく、マラリアがまん延した。地上戦こそなかったが、宮古島は悲惨な戦争体験をしている。
また、日本兵と共に、「慰安婦」にされた朝鮮半島や台湾の若い女性たちも、宮古島にいたことが調査の結果、明らかになっている。少なくとも17か所の「慰安所」が作られていた。宮古、沖縄、東京、韓国の女性たちの連携による募金運動によって2008年9月、私たちは日本軍「慰安婦」を悼む祈念碑を自衛隊基地のふもとに建立した。
敗戦後は米軍が野原岳に駐留し、1972年「本土復帰」の際、自衛隊に引き継がれ、現在、航空自衛隊の高機能・最新鋭のレーダー基地として運用されている。かつての戦争で日本軍の陣地を作った場所に、自衛隊はまた基地を作る。軍事組織は負の遺産を踏襲する。
・地下水の島を基地へと売り渡した前市長と防衛省の「大罪」
先述したように、地下水の島、宮古島市には国内でも数少ない「地下水保全条例」があり、水源近くに建造物を建てる際には、条例に基づいて「地下水審議会」に諮らなければならない。ミサイル基地配備計画は当初は北寄りの島民の飲料水の水源近くが候補地だったため、審議会に諮ったところ、「地下水汚染のおそれあり」の答申が出されたが、下地敏彦前市長はその答申の改ざんを画策した。しかし、私たちが開いたシンポジウムの場で良心的な審議会学術委員たちにより暴露され、市民の反対の声はさらに大きくなった。
下地敏彦前市長がゴルフ場の社長の依頼を受け、防衛省へ売り込んだことと相まって、陸自新基地建設予定地は島の中央部の野原の空自レーダー基地近くの千代田カントリーゴルフ場と、20キロほど南の保良地区の採石場に変更された。このゴルフ場が贈収賄罪の舞台となった。
21年5月12日に逮捕された前市長の公判が那覇地裁で続いている。12月17日第6回の結審公判では前市長は図々しくも、「収賄ではなく、政治資金として受け取ったもので無罪だ」と虚言を申し立てている。受け取ったのは600万円で済まないと地元では巷の言説で、贈賄側の千代田CCゴルフ場の社長は罪を認め、懲役1年6カ月、執行猶予3年の有罪判決が出されている。
前市長が社長の意を受け、防衛省へ売り込みに行ったのは、2015年の防衛省の配備計画公表前である。「贈収賄の舞台は防衛省」であったのに、防衛省の関係者に検察の手が及ぶことはなかった。ここでもトカゲのしっぽ切りなのか?
前市長に出されているのは懲役3年、追徴金600万円の求刑。基地へと売り渡され、変貌していく島の姿を見るにつけ、容易ではない既設基地の撤去を考えると、防衛省と前市長の罪はこんな微罪ではない。万死に値する大罪である。判決は来年2月22日だ。
・1500日以上続く現場での抗議と監視
私たちは、17年11月、元千代田CCゴルフ場の造成工事の始まりから、工事現場に横断幕や旗を掲げて反対運動を開始した。
毎日のように監視と抗議を続け、防衛省に工事や建設のデータの開示請求を行い基地建設工事の問題点を追及してきた。簡潔に列挙すると、
まず、①千代田の基地内には断層が走っていること。(保良の弾薬庫・射撃訓練場は両サイドを断層に挟まれていること)、②千代田の基地内には地盤に空洞があり、軟弱な箇所が数か所あり、特に燃料タンクが7基も埋設されている場所は精密な調査も地盤改良事業もされていないため、地下水汚染のおそれがあること、③千代田も、野原も、保良も、弾薬庫が民家に近すぎること、千代田に弾薬庫建設はしないと防衛局は住民にウソを言い続けたこと、④地域の祈りの場である「ウタキ(御嶽)」が基地内に取り込まれ、自由に立ち入る通行権を奪われていること、⑤千代田基地内にはヘリパッドも作らないと言ったが、グラウンドは緊急時にはヘリパッドにもなると翻したこと。燃料施設の備蓄燃料の半分以上がジェット燃料であることなど。
幾つもの問題点を解決しないまま、19年3月、警備部隊が発足。軍用車両100台が陸揚げされるとき、私たちは港で車をバリケードにし、人間の鎖で立ちはだかり、制服警官に排除されるまで8時間ほど阻止行動を展開した。20年3月には、ミサイル部隊が発足。700-800名の隊員が配備。3月26日、私たちは集会とデモ行進を延べ100名、県内外の参加者で敢行。千代田基地の正門ゲートを封鎖させた。
21年3月、保良の弾薬庫が2棟完成、運用が始まった。覆道式射撃訓練場も未完成なのに、21年、開設の式典もなく運用開始の既成事実作りだけを急いで運用が始まった。
・弾薬搬入阻止闘争
21年5月12日、下地前市長逮捕のニュースの陰に隠れるように、同時に「ミサイル弾薬搬入を17日以降に」との報道が流れた。ミサイル弾1発、全長約5m、重量約700キロという巨大な代物だから、海路で輸送されるだろうと私たちは、深夜、早朝の港の監視を続けていた。そうこうしているうちに、23日になって、うれしいニュースが飛び込んできた。「海運会社5社が連名で、宮古への弾薬輸送と荷役を拒否の声明」と! 期せずして生まれた市民と海運労働者の共闘だった。
防衛省は方針を変え、海路から空路にして空自のヘリでとりあえず運べる小火器類を、6月2日にいきなり輸送してくることが報道された。急きょ呼びかけに応えた複数名で、空自基地から保良の弾薬庫へ輸送するトラックの前に私たちは座り込み、身を投げ出して阻止行動を展開したが、警察に強制排除された。
その半年後11月14日、まだ整っていなかったミサイル弾頭弾薬の搬入が海自揚陸艦「しもきた」によって強行された。この日は忘れることのできない一日として宮古島の闘いに歴史的な1ページを刻んだ。
まだ明けない早朝から港に結集した市民約30名。沖縄県警から50名の機動隊が派遣されていた。軍艦の横っ腹から出てきた弾薬の入った大型コンテナを積んだ15台の軍用トラックを始め、42台の車両が列をなす。港のゲートから出ようとするその前に、私たち約10名はスクラムを組み、雨で濡れた路上に寝転がった。拘束も覚悟の上で身を挺して止めようとした。
トラックのエンジン音と警察官の警告のマイク音と私たちの抗議の怒号の喧騒の中で、私たちはまたしても暴力的に排除され、ミサイル弾頭弾薬は島に搬入され、有事への戦闘態勢は整った。
1995 年、進学塾講師として関⻄より宮古島教室へ赴任。宮古島の子どもたちと向き合い、反戦活動や持ち上がる基地問題への取り組みを地元の市⺠と共に続けている。ミサイル基地いらない宮古島住⺠連絡会事務局⻑、宮古島ピースアクション実行委員会代表。