日航123便墜落事故(第27弾):巡視艇に回収された垂直尾翼が事故翌朝までに横浜に運ばれたことがわかる資料について
社会・経済今回の記事では、巡視艇に回収された垂直尾翼が事故翌朝までに横浜に運ばれたことがわかる資料を紹介する。
現在、一般的には「海上に落下した垂直尾翼の一部は事故翌日の夕方に回収され、館山港に運ばれた」とされている。
例えば、1985年8月14日付『読売新聞』朝刊は以下の通り伝えている。
≪十三日午後六時五十五分ごろ、海上保安庁などに入った連絡によると、三浦半島三崎灯台西南西約十五㌔の相模湾上で、石川島播磨重工が試運転していた海上自衛隊の護衛艦「まつゆき」が飛行機の尾翼の一部らしいものを発見、回収した。
(中略)
「まつゆき」は、この垂直尾翼を千葉県・館山港に運んでおり、海上保安庁の巡視船「あきづき」が引き取り、きょう十四日、事故調委員に渡す。≫
また、事故調査報告書13ページには以下の通り記載されている。
≪浮遊残骸の揚収状況
相模湾等から、垂直尾翼のハニカム破片を主とする総数53個の浮遊残骸が揚収された(付図-20並びに写真-14 、15及び16参照)。
最初に発見されたものは「 ③ 垂直安定板前縁の上半部」、揚収日時は昭和60年8月13日18時55分ごろであった。≫
ところが、垂直尾翼が回収されたタイミング・運ばれた場所について、上記の情報とは異なる情報が記載されている資料があるので紹介する。
三重県立四日市高等学校の1952年卒業生で作る『都鳥』というエッセイ集がある。この『都鳥』第6号(2009年11月版)に、事故当時、横浜海上保安部の「巡視船いず」の船長をしており、事故当日、同船に乗っていた後藤隆三氏のエッセイが記載されている。当該エッセイには以下の通り書かれている。
≪8月12日夕方、相模湾まで帰ってきたとき、上空をふらふらしながら西に向かって飛んでいる日航機を本船の多数の乗組員が見ていました。まもなくラジオで日航123便が行方不明になったと報じているのを聞きましたが、「貴船は横浜に帰港せよ」との命令によって、この夜遅く横浜に入港しました。翌日になって、巡視艇で回収されたジャンボ機の垂直尾翼をはじめ多くの漂流物が停泊中の本船の後部甲板に引き上げられました。この後、 日航123便は御巣鷹山で遭難しているのが発見されました。遭難したのは相模湾で見送った飛行機でした。昼ごろあわただしく来船した日本航空と運輸省(当時)の関係者は、直ちに本船のサロンで緊急会議に入りました。≫
上記の情報から、巡視艇に回収された垂直尾翼が事故翌朝までに横浜に運ばれたことがわかる。
後藤氏のエッセイに書かれている内容を、それのみをもって客観的事実であると断定することはできないが、事実を精査する価値は十分にあるだろう。
なお、「航空自衛隊が海上の浮遊物を見つけた」とする資料もあるので紹介する。「探偵ファイル」というサイトに、フリーライター角田四郎氏が入手した元航空自衛隊パイロットの証言として、以下の情報が以前掲載されていた。
≪元航空自衛隊パイロットの証言。
事故当夜、基地で待機していると「相模湾で魚雷が行方不明になったので捜せ」との命令があり僚友を含む数機が飛んだ。
僚友は見つけなかったが、「別の機が海上の浮遊物を発見した」と語った。
自衛隊に出動の確認を取ったところ「機密である」とし回答はなかった。≫
(自衛隊に出動の確認を取ったのは角田氏であると思われる。)
海上保安庁・国土交通省・日航には後藤氏の証言の真偽を、防衛省には上記の元航空自衛隊パイロットの証言の真偽を公表していただきたい。
●付記:文化放送に事故の第一報が入った時刻について
実は、文化放送に事故の第一報が入った時刻がわかる資料があるので紹介する。
『スクープ音声が伝えた戦後ニッポン』(文化放送報道部監修)という本に、事故当時文化放送の記者であった西山弘道氏の回想が書かれている。西山氏は同書の中で以下の通り述べている。
≪ラジオ記者の回想
あの日は、お盆休みの真っ最中で、局内はもちろん、世の中もシーンとしていました。そこへ、午後6時半過ぎに「ジャンボ機の機影がレーダーから消えた」との一報が飛び込んできた。夏休みをとっていた記者たちが、続々と集まり始めました。
(中略)
(西山弘道)≫
なんと、西山氏は18時台に第一報が入ったと述べているである。ただし、同書には西山氏がナレーターを務める付属CDが付いており、同CDでは事故当日の状況について次の通り述べられている。
≪20年前のあの日、私は報道部の泊まり勤務でした。8月のお盆休みに入ってのんびりムードが漂っていた夜7時過ぎ、「日航ジャンボ機の機影がレーダーから消えた」という通信社の一報が入り、私は凍りつきました。≫
文化放送に事故の第一報が入ったのは18時台と19時台のどちらだったのか。文化放送には正確な情報を公表していただきたい。
【参考文献】
- 尾翼(垂直安定板)相模湾で回収 「操縦不能」を裏付け. 読売新聞. 1985-08-14, 朝刊, p.1.
- 運輸省航空事故調査委員会. 航空事故調査報告書 日本航空株式会社所属 ボーイング式747SR-100型JA8119 群馬県多野郡上野村山中 昭和60年8月12日. 1987, p.13. https://jtsb.mlit.go.jp/aircraft/download/62-2-JA8119-01.pdf(参照 2025-12-13)
- 後藤隆三. 海と私(4) 硫黄島に上陸して. 都鳥, 2009, 第6号(2009年11月版), p.4-5, 三重県立四日市高等学校 同窓会. https://shiko-kai.com/miyako/miyako_06.pdf(参照 2025-12-13)
- “日航機事故 新たな疑惑浮上!”. 探偵ファイル. https://www.tanteifile.com/tamashii/scoop_2005/08/12_01/(参照 2023-02-16)
- 執筆:三木明博・西山弘道・外谷健司・角谷浩一・黒井克行・新潮社出版企画部, 監修:文化放送報道部(編成局報道制作部). スクープ音声が伝えた戦後ニッポン. 新潮社, 2005, p.70-71, 付属CD(ナレーション/構成:西山弘道).
- “西山弘道”. Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E5%BC%98%E9%81%93(参照 2025-12-13)
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