「教育者として~学校現場の感染症対策~」(その1)
社会・経済私が教師になったのは、子どもたちの健全な成長に付き合えることが、自分の人生に最も大きな意味を持たせてくれると思ったからです。
子どもたちの生気に満ちた笑顔や、何かに集中しているときの真剣な表情に接すると、自分はどうしたらそれに応えられるか、どんなふうに関われるか、胸が高鳴り、頭の中はフル回転モードになります。
教師となった多くの皆さんが少なくとも最初はそうだったはずです。このコロナ禍の中で、その時の思いを胸に自問自答していただきたいのです…「このままでいいのか?」と。
新型コロナウイルス感染症が大きな問題となった当初は、私自身も「わからないこと」だらけでした。国民の多くも未知への恐怖から疑心暗鬼に駆られ、結果、現在も様々な憶測が飛び交う事態につながっています。しかし、科学的根拠に則った論文等を紐解きながら、客観的な事実データに突き合わせていけば、決して「未知なもの」でも「極端に恐ろしいもの」でもないことは容易に見えてきます。
ところが、教育者の多くが、今も「知らない(調べない)」ことによる「恐怖」の中で日々の教育活動に向かっています。安心感は「前を向いて前進する生き方」につながりますが、恐怖心は、思考停止による「後ろ向きに立ち止まる生き方」を強いてきます。そうした教師の心境はそのまま子どもの心にも伝染し、成長過程の繊細な心を萎縮させていきます。今の学校現場は、教育環境とは程遠い中で時を刻み続けていると思えてなりません。
ここで大きく舵をきらなければ、遠い未来に向けて、子どもたちの心に取り返しのつかない傷を残してしまうことに一刻も早く気付くべきです。
教育者の責任は重大です。国や自治体は「感染症対策」の側面からだけであらゆることを決定し、それで失われるものには全く目を向けようとしません。だからこそ教育者は、国や自治体から下りてくる対策にただ従うのではなく、現場の子どもたちが直面している危機的状況を具体的に示しながら、学校現場の実情を国や自治体に、ボトムアップ的に進言していくくらいの気構えを持ってほしいのです。教師が最優先すべきは、子どもたちの健全な成長に他ならないのですから。
さて、教育現場に横たわっている課題は複雑かつ厳しいものが多く、解決を試みて取り組むには、相当の覚悟とエネルギーが必要なのは私もこの身で何度も経験してきました。うまくいったことより、失敗し、頓挫・挫折して周囲に迷惑をかけ、組織(学校)全体にも助けられ、と、そんなことの連続でした。その重圧や、ときに、いくら頑張っても何の成果にもつながらないことに虚しさを感じ、途中で挫折してしまった方や、精神を病んでしまった人もいます。
でも、私が彼等を責める気になんて到底なれないほど、ときに想像を絶する過酷な現実があった(ある)ことも承知しているということです。
それでも私が最後まで走り続けてこられたのは、周囲の方々(先輩教師、同僚、保護者や地域の方々)の理解や協力があったことはもちろんですが、やはり、最も力になったのは、子どもたちがより強く生きようとして「もがく姿」や、よりよく成長しようとして「悩む姿」、そして、何かをなしとげたとき、あるいは感動する場面に出会ったときに見せる「輝く表情」や「笑顔」…そんなもののすぐ横で共に過ごせる日々だったことなのは間違いありません。
そんな中で、私の教師としての最後の数年間は、日本の教育が大きな変革に取り組み始めた時期と重なっていました。「生きる力」を養うために、「知識」ではなく、いかにして「知恵」を磨くか。問題解決の先に目指すものは「答え」ではなく(もちろんそれも必要ですが)、「解決に向けての過程」であり、その先にあるのは「答え」よりも「解(最適解)」の探求。そして、多くの物事に接する中で、生徒達自らがいかに「問い(疑問)」を持つことができるか。
そのために掲げられたのが、「主体的・対話的で深い学び(最初の頃「アクティブラーニング」と呼ばれていたものです)」の実践でした。
ここで注目すべきは、この「主体的」の後に「・」が入っていることです。つまり「主体的」は、その後の文言「対話的で深い学び(多くの人達と議論をしながら学びを深めていく)」と並列の概念ではなく、それらの基盤となるべきものということです。
私も、この考えに疑問を持ったことはありませんし、今も重要な視点だと思っています。その達成のために、現職時代の私がどれだけ貢献できたかとなると、はなはだ心もとないのは確かですが、目指す方向を見失ったことはないとの自負はあります。ただ、この主体的というのが日本人には最も苦手なことで、小中学生も例外ではありません。
原因の一つは「自己肯定感の低さ」だと言われてきました。私も全く同感です。何をやるにしても、まずは自分が自分であることを認められなければ、先には進めません。しかし、諸外国の若者と日本の若者とのアンケート結果を比較すれば、その差は歴然としています。故に、「日本の子どもたちの自己肯定感をいかにして高めるか」は、教育界が抱えてきた最大課題のひとつでした。
その上で、「対話的で深い学び」を進める上でよく示されていたことが、「『科学的根拠』に則って『論理的』に思考すること」でした。この点も自分なりに納得して取り組んできたとの自負はあります。現場でも、「エビデンスに沿って(科学的根拠によって)」とか「クリティカルシンキング(感情や主観に流されず、批判的視点も含めて考える)で」とか「ロジカルシンキング(論理的思考)を」という言葉が、日常的に飛び交っていました。答えは人それぞれ、生徒達の一人一人が自分の最適解を見つけ出す、そのための手助けをするのが教師の役割…を基盤に。
「何でも横文字に~」というあたりには多少の違和感もありましたが、内容的にはもっともだと思ってやってきました。
・1960年栃木県足尾町生まれ ・学生時代(群馬県立桐生南高校~早稲田大学)は陸上競技中心の生活を送る。 ・栃木県の公立学校教員として35年間勤務、学級経営や部活動指導を通して「全人教育」に心血を注ぐ。 ・退職前の4年間は「学校経営者」として奉職。最終年度は感染症対策にも追われる日々を過ごす。 ・現在は、現職時代の経験も含め、感染症に関する様々な情報を踏まえつつ、子ども達の健全な成長を願っての講演活動や行政への要望書提出など、多方面への働きかけにも注力している。