改めて検証するウクライナ問題の本質:XVII NATOの秘密作戦Stay-behindの影(その5)
国際プリンストン大学などで教鞭をとり、2020年9月18日に死去したスティーブン・コーエン氏は、米国の最良のロシア研究者として記憶されている。
もし生きていて現在のウクライナ戦争を目撃していたならどのように論評したか興味深いが、死の2年前に自身が編集人を務めていた『The Nation』誌(電子版)の2018年5月2日に発表した「米国のネオナチとの共謀」という記事で、以下のような「新聞でもテレビでも、主要なメディアではほとんど報道されないし、議論もされない」ウクライナの重要な事実を列挙している(注1)。
① 米国が「民主革命(ユーロ・マイダン革命)」と呼んでいる2014年2月の出来事は、「民主でも革命」でもなく、ネオナチを主体とした「暴力的クーデター」であった。
② ナチスドイツを思わせる「同性愛者、ユダヤ人、高齢のロシア人、その他『不純な』市民に対する暴行事件が多発し、警察や司法は「事実上何もしていない」。
③ 第二次世界大戦中にナチスドイツに協力し、ユダヤ人虐殺に手を染めた指導者を「復権させ、記念碑や記念館を建て、美化している」。さらにコーエン氏は、ウクライナの「新ファシズム」に対する米国の「暗黙かつ公式な支援と許容」の例も指弾している。
「ウクライナのネオナチ政党の創立者で、いまや国会議長にまでなった男が2017年に米国を訪れ、ジョン・マケイン上院議員やポール・ライアン下院議員をはじめとした有力政治家に広く歓待された。これが、ウクライナやその他の国に送ることになったメッセージを想像してみるがいい」。
ここでは氏名が明記されていないが、この「ネオナチ政党の創立者」とは、「暴力的クーデター」の事実上の最高指揮者であったアンドレイ・パルビィ氏に他ならない。
まさにネオナチへの「暗黙かつ公式な支援と許容」の事例だが、問題は何の支障もなく米国で「歓待」された以上に、「ネオナチ政党の創立者」のみならず、銃撃事件の容疑者が「国会議長」になるという、「暴力的クーデター」で誕生した政権の異様さにある。
コーエン氏が言う欧州での「ファシストやネオナチの復活」の象徴でもあるが、パルビィ氏一人だけに留まらない。
この政権の特異性は、ネオナチや極右の権力機構への進出にある。
評価は様々だが、フランスの著名な評論家であるティエリー・メイサン氏は、「欧州で第二次世界大戦以降、ナチス第三帝国を指向する政治家たちが初めて権力を握った」(注2)と見なした。
極右・ネオナチが進出したクーデター政権
パルビィ氏はクーデター直後、国会議長になる以前にウクライナの軍事と治安、諜報を統括する国家安全保障・国防会議の書記(事務局トップ)という要職に就任したが、以下の閣僚の役職と所属政党(任命当時)を確認すると、メイサン氏の指摘は誇張ではないだろう。
●副首相:オレクサンドル・シチ(スヴォボダ)
●国防相:イホール・クニャージ(スヴォボダ)
●教育科学相:シェルヒー・クビット(スヴォボダ)
●エコロジー・天然資源相:アンドリー・マフニュク(スヴォボダ)
●農業政策・食料相:イホル・シュヴァイコ(スヴォボダ)
●若者・スポーツ相:ドミトロ・ブラトフ(ウクライナ民族会議―ウクライナ人民の自己防衛、UNA-UNSO)
●検事総長:オレフ・マフニツィキー(スヴォボダ)
●反腐敗委員会委員長:タチアナ・チョルノビル(UNA-UNSO)
既述のように、「スヴォボダ」はパルビィが創立したネオナチ政党の「社会民族党」をルーツとする。「UNA-UNSO」は、暴力的な傾向が強い反ユダヤ主義のネオナチだ。
上記のメンバーは、入閣したアルセニー・ヤツェニク首相率いる政権がクーデター直後の暫定的色彩が強かったため、パルビィ氏を除く大半が短期間で公職から去った。
しかしこの時期で見逃せないのは、クーデターを成功に導く転機となった2月20日の銃撃事件の真相究明が、ほぼ不可能にされたという点だろう。
そもそも、事件の全貌を「マイダンでの抗議行動の司令官兼防衛委員会委員長として、抗議側の暴徒の支配力が政府を上回る地域の警備を担当していた」(注3)パルビィ氏が知らないはずはない。
だが捜査対象者になるどころか、「パルビィ氏自身が国会調査の責任者に選ばれた」(注4)というから驚くしかない。しかも、銃撃事件によってクーデターを成功させた勢力から大挙入閣し、しかもその一人が検事総長であれば、厳格な捜査が着手されたら逆に不自然だろう。
実際、既述したミコラ・アザロフ元首相は、亡命先で「クーデター後に就任したアレクサンドル・トルチノフ氏、セルヒィ・パシンスキー氏、アルセン・アヴァコフ氏、パルビィ氏、ヤツェニク氏らは『(銃撃事件の)証人と証拠を破壊するため、ありとあらゆることを実行した。虐殺の責任をヤヌコビッチ大統領と警察隊に押し付けようとした』と嘆いた」(注5)という。
このうち、前述のリストにはないトルチノフ氏は、クーデター後に暫定大統領に就任。ヤツェニク首相と同じく、右派政党「祖国」に属していた。同じくリスト外のパシンスキー氏も「祖国」に所属し、国会の副議長からクーデター後の14年3月に大統領府の長官代理になったが、パルビィ氏に劣らず銃撃事件で果たした役割の闇が深い。
既述したヤヌコビッチ時代の大統領府長官だったアンドリー・クリューイェフ氏も、「クーデターに発展した暴動の首謀者はトルチノフ氏とパルビィ氏、パシンスキー氏だった」と名指ししながら、特にパシンスキー氏については「ジョージアとバルトから二つの狙撃兵グループをキエフに連れてきた」(注6)と指摘している。
これ以外にもパシンスキー氏が、銃弾が発射された建物内で狙撃グループを直接指揮していたという証言が複数存在する。
1953年7月生まれ。中央大学大学院法学研究科修士課程修了。政党機紙記者を経て、パリでジャーナリスト活動。帰国後、経済誌の副編集長等を歴任。著書に『統一協会の犯罪』(八月書館)、『ミッテランとロカール』(社会新報ブックレット)、『9・11の謎』(金曜日)、『オバマの危険』(同)など。共著に『見えざる日本の支配者フリーメーソン』(徳間書店)、『終わらない占領』(法律文化社)、『日本会議と神社本庁』(同)など多数。