復帰50年、『沖縄国会』における沖縄の民意の無視
琉球・沖縄通信・石川氏、『核抜き本土並み』の文言は誤り
沖縄「復帰」50年、沖縄は核ミサイル戦争の場になりかねず、日米の軍事植民地の色合いは強まっている。50年前に何が起こっていたのかを検証しよう。元復帰協事務局の石川元平氏は地元県紙に見られる「基地を大幅に減らす『核抜き本土並み』」云々する文言の誤りを指摘している。
「『核抜き本土並み』と言う文言は専ら日本政府が語った言葉で、沖縄側の言葉ではない」という(『うちなーの夜明けと展望』琉球・沖縄自己決定権を樹立する会)。その用語は政府の諮問機関の提言書、佐藤栄作首相の国会答弁、愛知揆一外相らが使った。「『核抜き本土並みは』日本政府の基本方針であり、日本政府による県民騙しの方針、宣伝文句であった」と石川氏は批判している。
県民を騙したこと、「密約」の存在は歴史的にも明らかだ。1969年11月に佐藤首相とニクソン大統領は沖縄返還で合意した。その際、沖縄返還後に緊急事態が発生した場合に米軍が沖縄に核兵器を再度持ち込むことができるという合意が交わされていた。2009年にこの「密約」は明らかになった。
既存の核貯蔵地域である嘉手納町、那覇市、辺野古、ナイキ・ハーキュリーズ基地をいつでも必要な事態になったら使えるようにしておくという約束が県民の知らないところで決めてあった。日本外務省は否定したが、米国防総省は15年に公に認めた。そのことを論じた本『沖縄 憲法なき戦後』(古関彰一・豊下楢彦、みすず書房)によると「米国防総省の15年(略)、沖縄返還協定第7条にもとづいて『米国は(核)兵器を撤去するが、危機の際にはそれらを再度持ち込みする権利を維持した』と記して『密約』の存在を初めて認めた。(略)しかも沖縄への核の『再持ち込み』を『権利』と述べたことは、半世紀前の『密約』(略)が現在も生きていることを内外に誇示したものと言えよう」。
沖縄は1960年代、冷戦期には1300発の核弾頭が配備されていて、那覇港で誤射により米兵一人が死亡する事故もあった。今も核密約で交わされた権利は否定されておらず、日本国憲法を超越した姿勢で沖縄に臨んでおり、米軍は使用する意志を維持していると思える。
独立言論フォーラム・理事。那覇市出身、(財)雇用開発推進機構勤務時は『沖縄産業雇用白書』の執筆・監修に携わり、後、琉球大学准教授(雇用環境論・平和論等)に就く。退職後、那覇市議会議員を務め、現在、沖縄市民連絡会共同世話人で、市民運動には金武湾反CTS闘争以来継続参加。著書は『若者の未來をひらく』(なんよう文庫2005年)、『沖縄のエコツーリズムの可能性』(なんよう文庫2006年)等がある。