【特集】砂川闘争の過去と現在

砂川事件とは何であったか ―その本質と全体像を見る―

末浪靖司

砂川事件からまもなく65年になる。事件は、東京・砂川町の町民が米軍基地拡張のための土地収用に反対して闘った砂川闘争のなかで、それと一体のものとして起きた。

砂川闘争に参加した労働者、学生のうち特定の少数者を見せしめ的に逮捕・起訴した事件は、やがて、日本の政治・行政・司法を揺るがす大事件に発展した。その結果は今も、日本のあり方や国民の生活と権利に大きく影響している。

1.砂川闘争とは何か

第二次世界大戦後、日本をその世界戦略に組み込んだ米国は、1950年代半ばに戦闘機や輸送機のジェット化により長い滑走路のある基地を必要とするようになり、立川、横田、新潟、小牧、伊丹、木更津の米軍基地拡張を日本政府に要求した。これをうけて日本政府は、周辺土地の収用に乗り出した。

しかし、農地を取られては、農民は生きてゆけない。各地で基地拡張に反対する闘いが始まり、大きく発展した。

米国の日本占領は52年4月に終わったが、その後も米軍の直接支配が続いた沖縄では、農民に銃をつきつけて土地を強奪し、住民の闘いが島ぐるみで起きていた。本土でも、米軍が居座り、その横暴に対する闘いが各地で起きていた。

米軍立川基地があった砂川町では、特別調達庁(のちの防衛施設庁、現在は防衛施設局)が55年5月に宮崎伝左衛門町長に基地拡張のための土地収用を通告したのが、闘争の始まりだった。町では急遽、砂川基地拡張反対同盟を結成して町民の決起集会を開くなど、町ぐるみ、家族ぐるみで反対運動に立ち上がった。

砂川町民の闘いは、占領下と変わらない日本の現実に疑問を感じ、あるいは怒りを燃やしていた多くの国民の共感を呼んだ。とりわけ労働者や学生が多数自らの意志で支援活動に参加した。こうして55年から57年までの長期にわたり、激しい闘いが断続的に続くことになった。

政府は大量の警官隊を動員して、繰り返し座り込みやデモに襲いかかり、収容する土地を測量して杭を打ち込んだ。しかし、砂川町民はひるまなかった。

町民たちは、支援の労働者、学生とともにスクラムを組んで抵抗し、「土地に杭を打たれても、心に杭は打たれない」を合言葉に、ねばり強く闘った。少なくない人たちがそのなかで憲法や政治を学び、憲法が定めるように、日本は軍事基地のない平和な国にならなければいけないとますます強く考えるようになった。そうした思いが長期にわたる激しい闘いを支えたのだった。

2.米国が日本政府を動かす

米国政府は、日本の基地反対運動の広がりを警戒し、日本政府に対して、土地収用の早期実行を督促した。

55年9月には、グレイハム・パーソンズ駐日大使館参事官が福島慎太郎特別調達庁長官、安川壮外務省北米局長らと会議し、「砂川住民との交渉は完全に行き詰まり、進展はなかった。滑走路拡張に反対する砂川の抵抗は、米軍基地に反対する全国の運動と繋がっているからだ」と本国に報告した。

砂川闘争をとりわけ重視したのは、レムニッツァー米統合参謀本部議長であった。統合参謀本部は陸海空・海兵隊四軍を統率する米軍の最高司令部である。同議長が陸軍省に56年10月25日に出した極秘報告書で、55年7月より遅くない時期に砂川などで土地収用を終えることになっているのに、大衆的なデモのために大きな困難に直面しているとして、次のように書いた。

「砂川のデモは、10月12、13日にクライマックスに達した。この両日、日本政府による測量実施は大混乱に陥り、多数の測量員、警官、デモ参加者が負傷した。この事件は、広く知られることになり、指導的な新聞で『国民的悲劇』と言われた」。

レムニッツァーの報告書は、砂川の闘いが、米軍トップにいかに大きな衝撃をあたえていたかを示している。

 

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末浪靖司 末浪靖司

1939年 京都市生まれ。大阪外国語大学(現・大阪大学)卒業。著書:「対米従属の正体」「機密解禁文書にみる日米同盟」(以上、高文研)、「日米指揮権密約の研究」(創元社)など。共著:「検証・法治国家崩壊」(創元社)。米国立公文書館、ルーズベルト図書館、国家安全保障公文書館で日米関係を研究。現在、日本平和学会会員、日本平和委員会常任理事、非核の政府を求める会専門委員。日本中国友好協会参与。

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