第8回 容疑者解放寸前の自供、そして逮捕
メディア批評&事件検証足利事件で殺害された松田真実ちゃんの半袖肌着と、栃木県警の手塚一郎警部補が菅家利和さん尾行をした際にゴミ集積場から押収したティッシュペーパーのDNA型鑑定が、1991年8月27日から警察庁の科学警察研究所(科警研)の向山明孝、坂井活子両技官によって始まった。
その鑑定結果が、同年11月6日、警察庁経由の極秘連絡で同県警捜査本部にもたらされた。「16-26型でDNA型が一致した」というものであった。この鑑定の一致が長らく足踏みを続けてきた捜査を一挙に進展させる転機になるはずだった。
すぐさま、同県警捜査本部に警察庁トップの金沢昭雄長官から「10年、20年先の公判に耐える証拠固めと裏付け捜査をせよ」との厳命が下った。同県警捜査本部は、警察庁幹部や検察と合同で極秘の検討会をすることになる。
科警研の向山技官は、1991年11月25日付で松田真実ちゃんの半袖肌着に付着した精液と菅家さんの体液とのDNA型が一致したことを記した鑑定書を栃木県警の山本博一本部長宛てに提出した。
だが、同県警捜査本部は、これをもって菅家さん逮捕には動かなかった。そこには、理由があった。同県警がこれまでに不審者として尾行した人物は、実は数人いたのだ。
しかし、菅家さんのように1人暮らしている人物は他におらず、たとえ証拠になるようなものを入手したとしても、それが本人のものとは限らない。そういう意味で、同県警捜査本部は菅家さんが絶好の獲物だった。
その菅家さんを同県警捜査本部は尾行し続けたが、性的異常者、幼児に性的興味がある素振りを微塵も見せなかったのである。菅家さんが犯人像と合致するとしていたが、実際に裏付けが取れているのは、アリバイがないことと、血液型が分泌型のB型ということだけだったのだ。
内偵捜査でもDNA型鑑定以外に犯人像と裏付ける、目撃情報などは何一つも得られていない。だから同県警捜査本部は、菅家さんを任意で取り調べて、自供が取れてから逮捕する。刑事の取り調べで落ちなければ返すということにした。そのタイムリミットは、午後10時だった。
捜査本部は同年11月29日、菅家さんの事情聴取を2日後の12月1日と決めた。当時は、ほとんどの人にとって未知のDNA型鑑定と、その結果という科学的データが物的証拠として存在する。この新しい「武器」によって捜査の限界を超えることができるのではないか。捜査本部は新たな証拠集めを諦め、取り調べで自供させることを目的に捜査保身へと舵を切った。
菅家さん本人が調べを拒否すれば、任意同行はできず、犯行を否定すれば逮捕はしない。極めて慎重な姿勢だったのである。しかし、同県警捜査本部の判断によって現場の捜査員はDNAの幻影に脅かされ、自白させなければというプレッシャーに陥ったはずだ。つまり本当に犯人か探るための取り調べではなく、脅してでも犯行を認めさせるという意味でしかなかった。
そして着手前日の同年11月30日、任意同行にかかわる栃木県警の捜査員数人がマスコミへの情報漏れなどを防ぐために足利市内のホテルに泊まった。確かにここまではそうだった。
ところが任意同行の当日、同年12月1日午前1時頃のことだ。栃木県警の捜査幹部の自宅に記者たちが押しかけ、数分おきにインターホーンを鳴らし始めたのである。
幹部は取材に応じなかったが、その時点で毎日、朝日、読売の全国紙3紙の東京本社版当日朝刊社会面トップ記事で足利事件の重要参考人聴取をこぞって報じていたのである。
警察庁のリークによることは間違いないが、ここでも毎日新聞が時間的に12版の紙面で報じているのに対し、朝日、読売は13版と1版出遅れていた。しかもこの出遅れた2紙は一部の記事内容が間違っていたのだ。
正確には、松田真実ちゃんの半袖肌着の精液のDNA型と対照試料になった参考人である菅家さんの捨てたティッシュペーパーに付着していたDNA型が一致したというものだった。
これを朝日と読売の両紙は「肌着に付着していた陰毛と、それに参考人の対照試料のティッシュペーパーが一致した」と報道していたのだ。一部誤報だった。
独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。