インタビュー:水戸喜世子さん(「子ども脱被ばく裁判の会」共同代表)、「子ども脱被ばく裁判」長い闘いを共に歩む

尾崎美代子

3.11以降、原発事故を起こした東電と国を相手にした裁判は多数起こされているが、放射線への感受性が大人の何倍も高い子どもたちを原告にし、事故後の行政の対応に問題がなかったかを争う裁判は「子ども脱被ばく裁判」だけだ。

2014年8月、福島地裁に提訴、今年の3月1日に「不当判決」が下された。これに対して原告らは、3月15日、仙台高裁に提訴、控訴審裁判が10月22日から始まった。地裁判決の不当性と、仙台高裁で始まった控訴審の意義などを、「子ども脱被ばく裁判の会」共同代表の水戸喜世子さんにお聞きした。

Fukushima Radiation area concept isolated on white background

 

・子どもは希望

──水戸さんのフェイスブックによれば、関西からも10名が参加、原告の荒木田岳さん(福島大教授)が「裁判は遠くなると普通は参加者が減るのに、逆の現象がおきて励まされます」と話されてますが、福島地裁より活気づいているのでしょうか? また、当事者の子どもたちは減りますが、125名もの方々が控訴を決意。しかもたった15日間で決意しなければならなかった。その間、水戸さんはどんな思いでおられましたか?

水戸:原告さんは生まれて初めての裁判ですからね。まさか自分が原発事故の被害者になるなんて思ってもいなかった普通の方々。だから  右往左往し、身の振り方に思い悩み、一人息子を知らない北海道に送り出すとか。

どの家庭も一番の心配事は子どもの被ばくだったんです。どんなに大変なときも子どもは希望なので、10年たった今、親の思いをどこかで受け止めながら精神的にすくすく成長しています。幼い身で高線量の中を潜りぬけてきた子どもたちですから、どうか誰よりも元気であってほしいと願うばかりです。

まずは原告全員が無事に判決までたどり着けて良かった。勝っても負けてもそれだけで、この裁判は力がわいてきますね。とても冷たい判決でしたから、原告をやめたいという方が出て当然だと思っていました。返信のこない方には手分けして電話をかけましたが、長い電話でお話をして「一晩考えてみますね」ということになり、翌朝「もう一度裁判にかけてみます」と電話をいただいたときには、涙がでてしまいましたね。説明のしようがない涙ね。「この国から核を追い出すぞ」と私の中で改めて火がつきました。心ない判決が、原告さん自身の心に火をつけたのも確かです。

・3.11以前の司法と瓜二つ

──遠藤東路裁判長は、主文を言い渡しただけで、判決理由を述べずに退廷したそうですが、その場にいて水戸さんはどう感じましたか?

水戸:耳に聞こえたのは「…却下」「…棄却」だけでしたから、1分くらいかしら。近くにいた井戸謙一弁護士によると、判決用紙を手にしていたのに、なぜ読まなかったのでしょうね。一瞬で視界から消えてしまったので、みんな訳がわからず、きょとんとしていましたが、終わったらしいと立ち上がって、急にざわざわして、皆さん、重い足取りで法廷を後にしました。原告を愚弄していないか! 裁判官たるもの、自分の書いた判決文に胸を張れ! せめて判決要旨をしっかり読んでほしかった。旗出しの原告団長・今野寿美雄さんも内容も聞かされていないので、コメントしようもなく、ただ怒り心頭という感じでした。

──判決文について水戸さんは「法律に依拠するかわりにICRP(国際放射線防護委員会)と行政に阿るだけの、素人がみても法の名に値しない判決」と書かれています。今野さんも控訴審の「意見陳述」で「私たちが訴え続けた放射能の危険や不安、こどもの未来を、国や県の言い分をなぞって否定するだけで、読んでいて、口惜しさと、虚しさが込みあげました。事務的な言葉が延々と続き、とても血が通っているとは思えませんでした」と訴えました。水戸さんは、裁判長がなぜ、判決理由を原告の前で堂々と読みあげなかったとお考えですか?

水戸:効率よく「おつとめ」を果たしたかっただけでしょう。判決文には、裁判長が苦労して、自分の頭で考えた形跡がまったくないのです。204ページの判決文を読んだ人の感想は皆同じです。すべて国に丸投げ。国の言い分を解説しているだけ。こちらの提起した問題について、国が反論できない箇所は、裁判官も同じようにスルーしています。それではどう見ても裁判官の名に値しないでしょう。

あと強く感じたのは、3.11以前の司法と瓜2つだという点。福島事故を引き起した責任の一端は司法にもあります。3.11を機に司法は反省しなかったのでしょうか? 3.11以前の伊方原発訴訟も東海村原発訴訟も、私は記録を読んでいますが、今回の判決と同じパターンです。「国の権威ある専門家や国際機関が言っているから」と権威にのみ頼って、「よって危険は極めて小さい」と結論をもってくる。井戸謙一裁判長だけは例外ですが、原発に地震は耐えられないと裁判で反対派の専門家は言い続けてきたのですから、樋口英明裁判長のように、自分の頭で考える裁判長であったら、福島の事故は起きなくて済んだのです。次の福島を起こさないために、控訴審ではしっかり目を光らせないといけないですね。

・「わからない」を「安全」にすり替える

──原告の「いま現在、放射線被ばくの心配をしなくてもいい安全な場所で学校教育を行ってほしい」の訴えについて判決は、「いま現在、人の健康維持に悪影響を及ぼすほどの放射線に被ばくする『具体的な危険』が存在するとは認められない」としています。これについてはどうお考えになりましたか?

水戸:福島だけ一挙に法律の20倍の20マイクロシーベルトに基準値を引き上げておいて(日本の法令では年間1ミリシーベルトが公衆の被ばく限度)、そのインチキ法律の枠内に収まっているから「具体的な危険が存在しない」と言っているだけのことです。

住民にとっての「安全」とは、あくまでも事故前の線量だと、誰しもが考えていますし、正しい考え方だと思います。ICRPでさえ「ここからは安全」という基準値を設けられないとして、ゼロを起点とした直線モデルを提唱しているのですから。なぜ低線量でも危険なのか、それは内部被ばく、不溶性放射性微粒子の存在が大きく関わっています。これについて判決文は、「確かにその可能性もあるので、今、ICRPで検討中であり、いずれ改定されることがあるかもしれない。しかし今は、どの程度分布しているか、どの程度危険かまだわかっていないので心配はいらない」と結論づけています。「わからない」を「安全」にすり替える理論は、こと子どもの命を問題にしているときには、倫理上許されないことではないでしょうか。

・初期被爆とSPEEDI

──2つ目の訴え、3.11当時、子どもたちを無用に被ばくさせた行政の責任を問うことについては、判決は「国や県の事故後の対処は、違法とまでとはいえない」としました。こちらについてどうお考えになりましたか?

水戸:例えば、安定ヨウ素剤を飲ませなかったことですね。子どもの服用基準で飲ませていたら、甲状腺がんの摘出手術を受ける子が、もしかして270余名に及ぶことはなかったのにと悔やまれます。

判決文には「ア=すべて対象者(原則40歳未満)に対する指標が放射性ヨウ素による小児甲状腺等価線量の予測線量100ミリシーベルトとされていたことは、当時における国際原子力機構(IAEA)や諸外国における動向などを踏まえると、不合理とはいえない。/イ(要約)=100ミリシーベルトというのは、まったく防護措置を取らなかった場合のことで、適切に避難もなされ、屋内は屋外よりも低いし、簡易測定所が測った結果では最大で30ミリシーベルトの子が見つかっただけ、特別の仮定をおかない限りは、50ミリシーベルトを超える者はいなかったことにも鑑みれば、違法とはいえない」と書いてあります。

Vienna, Austria – December 30, 2007: The Vienna International Centre, where are located offices of The United Nations, International Atomic Energy Agency IAEA, Industrial Development Organization UNIDO

 

原告側は、国際的な基準では、子どもに関しては50ミリシーベルトが服用基準であるにもかかわらず、山下俊一医師の主張で大人並みの100ミリシーベルトに引き上げたことの不当性を批判しました。そのことへの弁解を、国の主張をなぞって書いているのです。1080人しか調べなかった甲状腺初期被ばく測定の実態からも、30ミリシーベルトの子だけというのは、まったく信頼できないし、家屋内が外よりも低いというのも、事実と違ってそうでない例が多く報告されています。

SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)による情報隠しで、住民を守らなかったことも争点でした。これについては、予測は気象条件により刻々と変わるので(だからこそ住民にとって情報が貴重であった)過大になったり過少になったりして、混乱を招くので公開しなかった、規制委員会がその後SPEEDIによる避難防護措置を放棄する措置をとったことにまで触れ、国の主張は全面的に支持できるとしました。原子力災害対策特別措置法により、原子力防災訓練など事故前は実施しながら、本番ではやめてしまった経緯について、原告側の質問に一切答えず、スルーしました。裁判所はいつから国の広報担当官に成り下がったのでしょうか。

 

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尾崎美代子 尾崎美代子

新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3.11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。

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