袴田巌さん(左)と石川一雄さん(右)

シリーズ日本の冤罪㊶:狭山事件 根拠なき見立て捜査 背景に警察の差別意識

青柳雄介
袴田巌さん(左)と石川一雄さん(右)

袴田巌さん(左)と石川一雄さん(右)

 

東京拘置所の「獄友」
 憲政史上5人目となる、確定死刑囚の再審が間もなく始まる。袴田巌さん(87歳)である。

袴田さんは1966年の逮捕以来、無実であるにもかかわらず、48年間も凶悪な殺人犯として獄中に幽閉されてきた。その間、死刑執行の恐怖と対峙し続け、ようやく今年、再審開始が決まり無罪の道筋が見えてきた。事件から57年が経過していた。

しかし、その袴田さんよりも以前の事件で殺人犯の汚名を着せられ、いまなお闘っている冤罪被害者がいる。狭山事件の石川一雄さん(84歳)である。

狭山事件は、1963年(昭和38年)5月1日、埼玉県狭山市で発生した高校1年生の少女を被害者とする強姦殺人事件。事件から今年で60年を迎えた。

石川さんが狭山事件の容疑者として逮捕されたのは、63年5月23日。起訴されると1審で死刑判決を受け、控訴した1964年4月に東京拘置所に送られた。強く無実を主張した2審でも有罪は覆らず、無期懲役判決。77年に上告が棄却され無期懲役が確定した。

これまでに3度、再審請求の申し立てが行なわれ、現在、第3次再審請求が審理されている。

そんな石川さんと袴田さんは同じ時期、ともに死刑囚として東京拘置所に収監されていた「獄友」だった。1審の静岡地裁で死刑判決を受けた袴田さんは1968年に控訴。静岡刑務所に併設されている拘置施設から東京拘置所へ移送された。

当時の東京拘置所は現在の小菅ではなく東池袋にあった。戦後すぐにGHQが接収し、戦争犯罪人らが収容されていた「巣鴨プリズン」だ。

袴田さんが東京拘置所へ移送された1968年から、石川さんが無期懲役に減刑される1974年まで、拘置所内で2人の交流は6年あまり続いた。死刑判決を受け上級審で争っていた被告や確定死刑囚が勾留されていた4舎2階で2人は次第に心を許し合うようになる。ともに無実でありながら1審で死刑判決を受け控訴中の身。互いに「イワちゃん」「カズちゃん」と呼び合い、同志として通じ合うものがあったと石川さんは述懐する。

「今では考えられませんが、当時は午後になると独居房の鍵が開けられ、同じフロアの房は自由に行き来ができました。定期的に転房があり、隣の隣がイワちゃんの房だったこともあります。読み書きができなかった私は、自室で勉強の日々でした。イワちゃんが遊びに来ると『カズちゃんも俺も冤罪だから、がんばろう』と励ましてくれたものです。娑婆に戻ったらボクサーに復帰する、無実はもうすぐ明らかになる、と力強く宣言していたことを憶えています」

執行を待つばかりの死刑囚とは異なり、石川さんと袴田さんには、常に前向きな思考と強固な精神力があった。

死刑を宣告されていたとはいえ、3畳あまりの独居房で文鳥を飼ったり、家族の写真を飾ったりすることが許されていた大らかな時代。石川さんは父親の写真を飾っていたという。中には、果物を発酵させてドブロクを作り、仲間に振る舞う収容者もいたとも、石川さんは語っている。

それでも、無実を叫ぶ声は、厚く高い壁に阻まれて、娑婆になかなか届かなかった。

大失態続きの警察の〝焦り〟
 同じ東京拘置所には、狭山事件の1カ月前に起きた「吉展ちゃん誘拐事件」で確定死刑囚となっていた小原保が収監されていた。これは戦後最大の誘拐事件といわれ、日本で初めて報道協定が結ばれた事件でもあった。

3月31日の誘拐から1週間後、身代金を犯人に奪われ4歳の吉展ちゃんは戻らない、という大失態を警察は犯した。大きな批判にさらされ、事件は長期化の様相を呈していた。実際、小原が逮捕されたのは2年後だった。

そうした中、埼玉県狭山市で女子高生が行方不明になり、生徒手帳とともに「脅迫状」が被害者宅に届くも、のちに遺体で発見される狭山事件が起きた。この事件でも警察は、身代金受け渡し現場に現れた犯人を包囲しながら取り逃がしてしまう。「吉展ちゃん事件」に次ぐ大きなミスを犯し、警察庁長官が引責辞任する事態に陥る。世論の警察への批判は強く、狭山事件の犯人検挙が至上命題になった。

焦る警察に、窃盗などで別件逮捕されたのが石川さんだった。石川さんは、窃盗については認めたものの、狭山事件については20日以上にわたる取り調べにも、自白をすることはなかった。しかし、石川さんは、強盗強姦殺人および死体遺棄容疑で再逮捕されると、虚偽の自白に追い込まれてしまう。

石川さんは刑事から、「自白しなければ、兄を逮捕する」などと脅迫を受けた。さらに、

「石川君、いつまで強情張っているのだい、殺したと言わないか。そうすれば10年で出してやるよ、石川君が言わなくても9件も悪い事をしてあるのだしどっちみち10年は出られないのだよ」

「石川君、殺したと言ってくれ。必ず10年で出してやるからな」

と刑事にささやかれた。それを石川さんは真に受けてしまったのだ。もちろん、捜査側の方便だった。

逮捕当時24歳だった石川さんは、1審の浦和地裁で全面的に罪を認めてしまう。そして1964年に死刑判決が言い渡された。

その後、獄中仲間等からのアドバイスもあり、石川さんは、2審の東京高裁で一転して冤罪を主張した。その時石川さんに大きな影響を与えたのは、三鷹事件の竹内景助死刑囚だった。

「石川さん、警察や検察なんか信じちゃだめだ。彼らは、ためらいもなく無実の人を死刑囚にしようとしているだけなんだ」

この竹内の言葉に石川さんは目が覚めた。死刑囚仲間が人権を教えてくれたのだ。

しかし、1974年に2審で無期懲役の判決が言い渡され、1977年に最高裁で無期懲役刑が確定した。

ちなみに、「吉展ちゃん事件」で小原は、2度にわたり容疑者として浮上するも、アリバイを主張し認められていた。2年後、迷宮入りかと思われた矢先、警視庁捜査1課で「落としの八兵衛」の異名をとる平塚八兵衛刑事が、切り札として捜査本部に投入され、供述のわずかな矛盾からアリバイ崩しに成功。小原の自供を引き出し、供述通り吉展ちゃんの遺体が発見された。小原は1971年12月、「真人間になって生まれ変わります」の言葉を残し、死刑が執行されている。

「スコップ」による見立て捜査
 狭山事件は、捜査段階とその後の裁判に問題点が多く指摘されている。まず、石川さんが被差別部落の出身だということがある。社会的弱者である石川さんが、偏った捜査で狙い撃ちにされたのではないか。その後の裁判も「狭山差別裁判」と呼ばれている。

これについては、最高裁が上告棄却決定の中で、〈記録を調査しても、捜査官が、所論のいう理由により、被告人に対し予断と偏見をもつて差別的な捜査を行ったことを窺わせる証跡はなく、また、原判決が所論のいう差別的捜査や第1審の差別的審理、判決を追認、擁護するものでなく、原審の審理及び判決が積極的にも消極的にも部落差別を是認した予断と偏見による差別的なものでないことは、原審の審理の経過及び判決自体に照らし明らかである。〉と、差別裁判ではないと言及している。だが本当に公正な捜査・裁判であったかは、大いに疑問だ。

石川さんが警察によって犯人と見立てられたのは、「スコップ」がきっかけだった。事件後に、遺体発見現場から125メートル離れた麦畑で、1本のスコップが見つかったのである。警察はこれを、遺体を埋めるのに使ったものであるとした。

また、狭山市内の養豚場で、スコップが紛失していたことを知った警察は、経営者に盗難の被害届を提出させた。そして、スコップのある場所を知っていたのはかつて養豚場に勤めていた石川さんら養豚場の関係者しかいないこと、また、養豚場の番犬に慣れている者でなければスコップを盗み得ない状況にあったとして、石川さんら十数人が疑われた。

また、被害者は強姦されており、体内から血液型B型の精液が検出されていた。疑われた中で、ただ1人同じ血液型だったのが石川さんだった。

だが、2018年に弁護団が提出した元科捜研技官の平岡義博・立命館大学教授による鑑定で、スコップが事件に使われたものとも、養豚場のスコップとも特定できないと指摘している。

さらに、被害者が所在不明となった後、届けられた脅迫状の筆跡が石川さんのものと一致したと警察は主張したが、石川さんは当時、字を書く能力がなかった。石川さんの家族は「事件当時、家で寝ていた」と石川さんのアリバイを証言していたが、自宅は風呂場伝いに家族に隠れて外出できる構造だという無理筋な理由で、彼を逮捕している。

スコップ1本を入り口に、被差別部落出身者を狙い、犯人を絞り込んでいく。逮捕に結びつくまでの、あまりに希薄な論理からは警察のやり口が見て取れる。

また、身代金受け渡し現場付近の茶畑に残された地下足袋の足跡と、石川さんの家から押収された地下足袋の大きさや特徴が、一致するとも警察は主張した。石川さんは「この地下足袋は兄のもので、自分には小さすぎて履けない」と述べている。

さらに事件から2カ月近くも経ってから、被害者のものとされる万年筆が、石川さん宅の勝手場入り口の鴨居から発見された。石川さんの自宅は、十数人の刑事が2時間以上もかけて、室内はもちろん、便所・天井裏・屋根上・床下のほか、家の周辺で盛り上がっているところは掘り返すという、徹底的な家宅捜索を2回も行なっていた。そのあとで鴨居から発見されたというのは、どう考えても不自然だ。

2審の東京高裁の判決は、この鴨居の万年筆について、「背の低い人には見えにくく、人目につき易いところであるとは認められない」と述べる。ところがこの鴨居は、床から175.9センチしかない。むしろ、非常に目につきやすい場所なのだ。しかも、当初の捜索に当たった捜査員は後年、「ふし穴を調べた」「鴨居に手を入れて調べたが、何もなかった」と証言しているのだ。

このことについて最高裁もまた、〈鴨居の高さや奥行などからみて、必ずしも当然に、捜査官の目に止まる場所ともいえず、捜査官がこの場所を見落とすことはありうるような状況の隠匿場所であるともみられる。〉と、牽強付会な可能性論を披露している。

〝可能性論〞はまだある。発見された被害者のものとされる万年筆の中に入っていたインクはブルーブラックだったが、被害者が使っていたとされるインクはライトブルーだった。最高裁はこの点についても、〈被害者又は万年筆やインクと無縁ではない申立人によって本件万年筆にブルーブラックのインクが補充された可能性がある以上、本件万年筆が被害者の万年筆ではない疑いがあるとはいえない。〉とし、被害者か石川さんがインクを詰め替えた可能性を挙げている。こんな都合のいい解釈をすれば、「何でもあり」になってしまう。

また、前述した脅迫状の筆跡についても、実は異なる筆跡であることが後に明確になった。先に述べたように、石川さんには文字を書く能力がないに等しかった。たとえば石川さんは、自らの名前「一雄」が書けず、「一夫」としか書けなかったのだ。

国語学者の大野晋・学習院大学教授は、検察側証拠として提出された、石川さんの埼玉県警狭山署長あての上申書と脅迫状について、東京高裁控訴審と第2次再審請求の2度にわたり筆跡鑑定を行ない、脅迫状の筆跡および文章が逮捕されたときの石川さんの稚拙な日本語能力では不可能なものであると分析。「脅迫状は被告人が書いたものではないと判断される」と結論づけた。

しかし最高裁は、ひらがなで「つ」と書くべきところをカタカナで「ツ」と書き、日付の記載は漢数字とアラビア数字を混用すること。助詞の「は」で「は」と「わ」を混用することなどが、石川さんと脅迫状で一致していることなどから、石川さんが脅迫状を記したとした。

 

袴田さんとともに 石川さんの闘い
 石川さんは最高裁で無期懲役が確定し、千葉刑務所に下獄した。そして1994年の仮釈放までの32年間、塀の中に留め置かれたのである。

第1次と第2次の再審請求は、いずれも最高裁で認められなかった。2006年5月に第3次再審請求を申し立て、現在も継続中である。この年、第18回多田謡子反権力人権賞を受賞。これは後に、袴田さんも受賞している。

50年にわたって石川さんを支援している愛知県の山崎和男さんが言う。

「弁護側・検察側の言い分がほぼ出そろって、この秋くらいに何らかの判断が出るのではないかといわれています。ただ第4刑事部の大野勝則裁判長が、今年12月に退官してしまいます。本来は再審開始をしてほしいのですが。裁判長が変わることでどんな影響が出るのかわかりません。少なくとも筆跡とかスコップなどの鑑定人尋問をさせようと、いま照準を絞っています。そこに絞ったほうが効果的ではないかと思うので、退官までにそこまではさせたいところです」

2014年10月、石川さんは、この年に釈放された袴田さんの浜松市内の自宅を訪ねた。玄関で「いらっしゃい」と出迎えた袴田さん。その後すぐに、「石川さんのお父さんか?」と発言。独居房に父の写真を飾っていた石川さんの部屋をよく訪れていた袴田さんは、その写真をよく眺めていて、年齢を重ねた石川さんが父に似てきていたため、そんな発言が飛び出したようだ。

折しも、袴田さんの再審が決まった。獄友の石川さんも人権を破壊しようとする警察と検察に勝利する決意を新たにしているという。そして、2人の無罪への遠き道は、ともに、人権を守るために連帯する多くの支援者らの輪によって支えられている。石川さんと袴田さんの人生は、多くの人とつながっているのだ。

それは権力側の看守とて同じだった。石川さんに文字を教えたのも看守だったという。とても厳しい教え方で、1つの文字を覚えるのに千回書くことを強いた。石川さんが仮釈放されたあとには、ある看守の息子の結婚式に石川さんが招かれたという。石川さんにとっては初めての晴れ舞台だった。その看守は集会等でも支援のメッセージを贈っているそうだ。

長く非人間的な扱いを受けてきたが、こうした温かみのある多くの人に包まれて、再審はあと1歩のところまで迫っている。

(月刊「紙の爆弾」2023年9月号より)

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青柳雄介 青柳雄介

雑誌記者を経てフリーのジャーナリスト。事件を中心に社会・福祉・司法ほか、さまざまな分野を取材。袴田巖氏の密着取材も続けている。

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