【連載】データの隠ぺい、映像に魂を奪われた法廷の人々(梶山天)

第18回 被害者のサイン

梶山天

筑波大学法医学教室(茨城県つくば市)の本田克也元教授は、宇都宮地方裁判所で始まる「今市事件」の裁判員裁判に弁護側証人として出廷することが決まった。弁護士との打ち合わせの過程で、膨大な捜査関係資料を送ってもらった。その中には、いくつか本田元教授が把握してない事実があった。

特に驚いたのはDNA型鑑定が何度も行われていたことである。国選で民事裁判中心の弁護士たちは、刑事事件に慣れていない。鑑定結果が余りにも多く、どの結果が何を意味しているか、さっぱりわからなかった。だから裁判でどう攻めたらいいか、作戦も立てられない。そこで、まずは膨大な資料を調べてみることにした。

資料は、栃木県警が被害者の遺体からたくさんのDNA型鑑定用の試料を採取した物だ。被害者の下半身の周りはもちろん、皮膚の全てにわたっていた。例えば被害者の顔面やあごはガーゼ片で、背中をろ紙で、乳首は脱脂綿で、手首や足底を採証テープでというようにDNA型鑑定用の資料を入念に採取していた。

これらをサンプリングし、番号をふっていた。その数は約60。その結果は、ほとんど被害者女児由来のもので、第三者と思われる犯人特定につながる型はほとんど出ていなかった。ただ、このうちいくつかは第三者の型と特定できる物があったが、それは後に同県警の捜査員であったことが判明する。しかし、由来不明の型はそれだけではなかった。

このことは後で重大な意味を持つことになる。いずれにしてもこの過程で、この今市事件捜査に関わった全ての捜査員のDNAデータが採取されたはずである。

同県警は、DNAから犯人を割り出すということに異常なほど情熱を燃やしていた。これは冤罪「足利事件」でも同じであり、その失敗の経験がいかされていないどころか、ますます拍車をかけているように見え、全く反省がないことに恐ろしさを感じた。

本来なら、事件の構造を明らかにして容疑者を絞り込んだ後、DNA型鑑定で確かめるという方法であれば安心できる。だが、被害者に付着した多くの細胞は全てがこの事件の犯人を導くものではない。無関係の第三者を追いかけてしまうことにもなりかねないのだ。

本田元教授が驚いたのは、そのことだけではない。なんと被害者の後頭部には、髪に付着した布製粘着テープの破片1片(幅約5㌢、長さ約5.5㌢)が残っていたのだ。真犯人が剥がし損なったに違いない。

ここでわかるのは、犯人は、あまりにも慌てていたということである。確かに被害女児は髪が長いため、粘着テープが見えづらかったということもあるかもしれないが、慎重にことを運んだとすれば、遺体を遺棄するのに、粘着テープの剥がしそこないを見逃すわけはない。

本田元教授は「こんな大事な物があったとは。どうしてこれが活かせなかったのか」と仰天した。というのも、この粘着テープは、他の証拠と異なり、この事件に関わった犯人が頭に巻きつけたことだけは間違いないものであるからだ。これは自分が行った被害者の司法解剖の結果でも髪に貼られた位置は、右ほおから左ほおに達する線上の皮膚変色の部位とほぼ同じ高さであることから、鼻辺りをふさぐために粘着テープを後頭部まで巻いていることを裏付ける痕跡として残っていたのだ。

粘着テープは、右耳に近い位置にある切断面が、反対側と比べて凹凸であり、引きちぎった時にできる切断面と類似している。確実に犯人が接触したことが明らかな証拠である。このような物があったとはそれまで本田元教授はまったく知らなかった。

なぜならば、本田元教授が女児を解剖する時には、既に茨城県警大宮署での検視の際に見つかった粘着テープを栃木県警が持ち帰っていて、現場に携わった一部の警察官を除いては、鑑識に関わる警察官もそのことを知らなかったらしく、解剖中もその話題は全く出ていなかったからだ。

後に判明したのは、現場の鑑識活動を茨城県警に任せたもののDNA型鑑定に関わる試料は全部栃木県警でやる、という話になり茨城県警大宮署での検視の際に後頭部に付着している粘着テープを見つけるや全て持ち帰ったという。

ただ、茨城県警は解剖で採取した対照試料である被害者の血液からのDNA型鑑定を行っただけに過ぎなかった。元教授は解剖時に膣内容液や外陰部周囲から丁寧に試料を採取し、DNA型鑑定を行ったが、被害者以外のDNA型はまったく出なかった。

被害者の皮膚に付いた細胞は単なる偶然の産物であることもあり得るが、後頭部に剥がしそこなった粘着テープは明らかに人為的に付けられたものである。しかも粘着テープなるが故に、その粘着部分には犯人の細胞が付着している可能性が高い。特にテープを切った断端部は重要である。

だとしたら、テープの周辺部分を丹念に調べれば、そこから必ず、真犯人のDNAが混在しているはずであり、仮にそこに被害者の細胞が混合しているとしてもそれを引き算すれば真犯人の型が浮かび上がってくるはずだ。まさに被害者が自分の身体を持って犯人を特定した大切なサインを送っていたのである。

この粘着テープの鑑定は、3度行われていた。最初が2005年12月7日嘱託で、栃木県警科捜研の仁平裕久技官が鑑定していた。2回目が13年8月20日、3回目が14年3月11日嘱託でいずれも科捜研の圓城寺仁技官が鑑定したとなっている。

鑑定方法は1990年代後半から国際的に開拓されたSTR(Short Tandem Repeat)だ。細胞分裂の直前に細胞核内に現れる染色体には、ごく短い塩基配列が繰り返されている。遺伝子部位が無数にある。このうち特に短い反復配列(2~5塩基)を単位とする部位(STR)に着目し、各部位ごとの配列の反復数を調べる方法だ。

高性能の機器とキットを用いることにより、常染色体の15部位のほかに男女の性別マーカーのアメロゲニン(性別判定に用いる)なども含め、複数箇所を同時にコンピュータで解析して調べられる。

市民が参加する裁判員裁判である一審の宇都宮地裁では、2、3回目の鑑定において、被害者のDNA型とは一致しない複数のDNA型が検出されていることについて、これらはいずれも科捜研の2人に由来するDNA型として十分に説明が可能なものであり、鑑定を実施する過程で鑑定人に由来する細胞組織が資料に混入した蓋然性が認められるとし、この鑑定は蚊帳の外に置かれた。

1 2
梶山天 梶山天

独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。

ご支援ください。

ISFは市民による独立メディアです。広告に頼らずにすべて市民からの寄付金によって運営されています。皆さまからのご支援をよろしくお願いします!

Most Popular

Recommend

Recommend Movie

columnist

執筆者

一覧へ