【コリアン・ジェノサイド 裕仁最初の犯罪を問う(3)/前田朗(朝鮮大学校講師)】
社会・経済政治1923年9月2日の戒厳令発布について、これまで歴史研究は山本権兵衛内閣の成立までの権力闘争に焦点を当ててきました。本当に問うべき問題に蓋をしてきたのではないでしょうか。
第1に9月2日午前9時、閣議が開催されましたが、政府首脳は戒厳令の適用に慎重でした。
水野錬太郎内相や赤池濃警視総監は「朝鮮人が暴動を起こしているので戒厳令を出すべきだ」と唱えましたが、閣議では戒厳令発布に至りませんでした。なぜでしょうか。
朝鮮人暴動の証拠が何一つなかったからではないでしょうか。
その後もそうした証拠は存在しません。
第2に同日12時頃、内田康哉臨時首相と水野内相が摂政裕仁に拝謁しました。
その後、官邸に戻った内田臨時首相は戒厳令の必要性を力説して、閣議決定に漕ぎ着けました。
午前の閣議では戒厳令発布がまとまらなかったのに、午後の閣議ではすぐに戒厳令発布がまとまりました。
朝鮮人暴動の証拠が出た訳ではありません。にもかかわらず閣議で速やかに戒厳令発布がまとまったのはなぜでしょうか。
歴史資料からは不明ですが、考えられるのは、摂政裕仁が戒厳令を容認したことではないでしょうか。
それ以外に政府首脳の判断を覆す理由があるでしょうか。
第3に時間にも注意が必要です。午前の閣議を終えて、内田臨時首相と水野内相が12時頃に摂政裕仁に拝謁しました。
そこから官邸に戻って、閣議で戒厳令発布を決定しました。
内田臨時首相が再び宮中に出かけて再び摂政裕仁に拝謁し、12時45分頃、戒厳令適用の裁可を得ました。
官邸と宮中を往復する時間を仮に20分とすると、残りの25分間で閣議の議論を覆したのです。
これほど速やかに事態が進行したのは、摂政裕仁が戒厳令発布を支持した、または容認したからではないでしょうか。
それ以外にいかなる理由がありうるでしょうか。
第4に実際に出された戒厳令には「朝鮮人が暴動を起こした」旨が明記されています。
水野内相と赤池警視総監が証拠もなしに唱えた朝鮮人暴動が、戒厳令に記載されたのはなぜでしょうか。
12時頃に摂政裕仁に拝謁したのは内田臨時首相と水野内相です。
歴史資料からは不明ですが、考えられるのは、水野内相が朝鮮人暴動を摂政裕仁に吹き込んだことです。
水野内相の発言を軽率にも信じ込んだ摂政裕仁が「朝鮮人暴動ゆえに戒厳令やむなし」という理由づけに言質を与えたのではないでしょうか。
それ以外に合理的理由が考えられるでしょうか。
なぜ歴史研究はこうした重要問題に蓋をしてきたのでしょうか。摂政裕仁の関与だけは認めてはならないからでしょうか。
「週刊MDSの2024年03月01日 1811号の転載」
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(一社)独立言論フォーラム・理事。東京造形大学名誉教授、日本民主法律家協会理事、救援連絡センター運営委員。著書『メディアと市民』『旅する平和学』(以上彩流社)『軍隊のない国家』(日本評論社)非国民シリーズ『非国民がやってきた!』『国民を殺す国家』『パロディのパロディ――井上ひさし再入門』(以上耕文社)『ヘイト・スピーチ法研究要綱』『憲法9条再入門』(以上三一書房)『500冊の死刑』(インパクト出版会)等。