【連載】インタヴュー:時代を紡ぐ人々(前田朗)

第3回 共感を呼ぶ「平和の少女像」 「表現の不自由展」がめざすものは何か、岡本有佳さんに聞く

前田朗

――「表現の不自由展 東京 2022」(くにたち市民芸術ホール、2022年4月2~5日)を成功裏に終えました。

岡本――右翼の妨害があって土日は大変でしたけど、国立市民の頑張りで展示できました。「全部できたことが夢のよう」と言いたくなるくらいです。延期や中止になっていたと思うと本当に怖い。なかったことにされたくない。ずっと不安と期待を抱えながらやってきました。本当にドキドキしていたんです。

表現の不自由展カタログ表紙(写真提供:表現の不自由展・東京実行委員会)

 

――準備が大変だったようですね。

岡本――7ヶ月かかりました。2回延期になりました。右翼の妨害だけでなく、天皇制との関係からか、「開催したいけど、開催できない」と断ってきた施設もあります。喧々諤々の議論になりかけながら議論が封じられたというか、日本の闇は深いと改めて思い知らされました。

民間の施設だと、激しい嫌がらせに個人ではなかなか対応できません。主催者である実行委員会には何も言ってこないのに、個人経営施設のオーナーのところに攻撃が集中します。一番弱いところを狙い撃ちにする卑劣さです。警察はほぼ動きませんでした。

――国際芸術展「あいちトリエンナーレ2019」での展示が拙速に中止されてしまいました。

岡本――河村たかし・名古屋市長が「事実と違う。日本人の恥だ」などと発言しました。大村秀章・愛知県知事も芸術監督の津田大介さんも正面から反論しない。そして中止にしてしまったので、妨害行為をした右翼にとっては大きな「成功体験」です。

――威力業務妨害や脅迫が良いことだとされてしまいました。

岡本――こんなことを繰り返すわけにはいきませんから、しっかり準備して実施に漕ぎつけないといけません。その後、大阪と名古屋と京都と続きました。展示のために搬入と搬出に立ち会う必要がありますから、私も各地を巡回しました。

その後に東京の準備を始めたのですが、途中で中止にさせるわけにはいかないので、相談できる体制作りから始めました。弁護士の方々に集まってもらって相談しながら進めました。会期中に待機してもらう必要がありますから、数人のチームではとても足りません。中核になったのは10人ほどですが、全体では60人ほどの弁護士さんが協力体制を作ってくれました。

東京のどこで開催するか。民間では難しい。大阪は公共施設だったので、警察のサポートも少ないなりに、あったわけです。周到に準備して、会場選定をしました。その後、施設・行政側と協議を続けたことが大きな成果でした。

同時に、実行委員会だけでは弱体ですから、地域のネットワークの協力が必要です。国立市民のネットワークがとても力になりました。手探りで進めながら、ネットワークを広げていきました。

写真提供:表現の不自由展・東京実行委員会

 

・「表現の不自由展」とは

――「表現の不自由展」は「あいちトリエンナーレ」が初めてではなく前史があります。

岡本――最初は2015年にギャラリー古藤(東京都練馬区・江古田)でした。

2012年、写真家の安世鴻さんの「慰安婦」写真展が、抗議電話やEメールのために、新宿ニコンサロンによって中止決定されました。裁判所の仮処分決定を得て、写真展が実現しました。その後、安世鴻さんが再発防止のためにも提訴し、その支援に私も参加しました。

――それがきっかけで「表現の不自由展」を思いついたのでしょうか。

岡本――もう一つあります。やはり2012年、「第18回JAALA国際交流展」(東京都美術館)で、平和の少女像など「慰安婦」をテーマにした作品が美術館側によって撤去されました。作家に知らせずに撤去したのです。これはソウルの日本大使館前に設置されたブロンズ像ではなく、縮小したミニチュアです。

――それは報道されませんでしたね。

岡本――闇から闇に葬られるところでした。知らないうちに表現の自由が侵害されている。これをきっかけに、美術館や公共施設から撤去されたり、拒否された作品を一斉に展示しようと考えて、「表現の不自由展」をいうコンセプトができました。

――都心ではなく、江古田のギャラリー古藤ですね。

岡本――2700名もの観客が来てくれました。作品を制作するのは作家の表現です。作品を展示するのは美術館や学芸員の表現です。しかし、それだけで表現の自由が成立しているとは言えません。芸術作品の受け手である観客がいなければ完結しません。

――作家だけの表現の自由ではなく、作家と観客が揃って成立する表現の自由ですね。

岡本――観客の見る・聞く・知る自由がなければ、表現の自由は宙に浮いてしまいます。双方向の情報伝達と交流の場を社会に確保して表現の自由を守らなくてはなりません。

――韓国・済州(済州4.3平和公園、2019年12月~20年1月)や台湾・台北(台北市現代美術館、2020年4月~6月)を経て、「表現の不自由展・その後東京EDITION」(2021年6~7月)が中止になりましたが、名古屋の「私たちの『表現の不自由展・その後』」(市民ギャラリー栄、2021年7月)、大阪の「表現の不自由展かんさい」(エル・おおさか9階ギャラリー、2021年7月)と続きました。

岡本――名古屋や大阪でも激しい妨害に遭いました。吉村洋文大阪府知事が前面に出て露骨に妨害してきましたが、跳ね除けて展示を実現できました。「表現の不自由展・その後東京EDITION」を妨害する脅迫メールについては被害届を出したところ、容疑者が逮捕されました。

みんなが見たがっている

――右翼の妨害の激しさと執拗さを見ると、「表現の不自由展」が社会的に支持されていないように見えますが、実際には多くの人々が観覧し、作品に出会い、感銘を受けました。「平和の少女像」も日本中から反発されて、紛糾の種であるかのように報道されていますが、そんなことはありません。

岡本――騒いでいるのは見ていない人たちです。見る気もなく、作品を見ずに攻撃してくるんです。

――多くの人々が「平和の少女像」(キム・ソギョン+キム・ウンソン、2011年)を見たがっています。

岡本――日本大使館前のブロンズの少女像は2011年に設置されたのですが、当時、闘病中でしたので私が最初にいつ見たかはっきり覚えてないんです。FRPの少女像を見たのは2013年でしょうか、FRPの少女像がソウルの歴史博物館で展示された時です。親子連れの客がたくさんいて、子どもたちが少女像の塗り絵をしていました。その塗り絵を壁に貼りだしていました。みんなに愛されているんだなという印象でした。

それと彫刻といえば、高いところに設置されていて、人物が私たちを見下ろしているイメージがあります。武将や英雄とか「偉い人」の銅像ですね。でも、少女像は私たちと同じ目線なんです。

――歴史の闇に閉ざされた女性の姿は、あたかも地面の下に埋もれているようでした。平和の少女像はそれを私たちの目線の高さに持ってきた。

岡本――1991年の金学順さんのカミングアウトの時は、生活クラブ生協で読書欄担当だったので、自分の現場でできることとして、勉強会をしたり、選書で日本軍「慰安婦」問題を取り上げていきました。

在日朝鮮人女性の宋神道さんのカミングアウトも衝撃的でした。在日朝鮮人に対する差別があって、まして「慰安婦」問題ですから、社会的サポートがなく、聞き届ける努力がなされていません。私たちが聞き取る力が弱いのに、宋神道さんはその社会で闘いの声を挙げなくてはならなかった。また、在日朝鮮人にしわ寄せをしてしまっている、という思いがありました。日本社会の差別の構造的な問題を痛感しました。

1998年に「ナヌムの家」に歴史館ができるということで、初めてソウルに行きました。ハルモニたちとの出会いの中で、被害者の声を聞き取ることの意味を自分なりに考えました。その後、韓国語の勉強も始めました。

 

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前田朗 前田朗

(一社)独立言論フォーラム・理事。東京造形大学名誉教授、日本民主法律家協会理事、救援連絡センター運営委員。著書『メディアと市民』『旅する平和学』(以上彩流社)『軍隊のない国家』(日本評論社)非国民シリーズ『非国民がやってきた!』『国民を殺す国家』『パロディのパロディ――井上ひさし再入門』(以上耕文社)『ヘイト・スピーチ法研究要綱』『憲法9条再入門』(以上三一書房)『500冊の死刑』(インパクト出版会)等。

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