第27回 死後硬直への疑問
メディア批評&事件検証さて、2016年2月29日から始まった宇都宮地方裁判所での裁判員裁判である今市事件一審の法廷には、捜査側から嘱託を受けて被害女児の遺体を解剖した本田元教授が弁護士側の証人として出廷するという前代未聞の裁判となった。
検察側の証人として九州大学の池田典昭教授、東京大学・千葉大学兼務の岩瀬博太郎教授ら複数の法医学者が出廷し、特に池田、岩瀬両教授は、殺人罪に問われた勝又受刑者の供述内容に「矛盾」がないというフレーズを強調するように連呼した。
ただこの2人は、被害女児の解剖はしておらず、おそらくは鑑定書も見せられないままで、捜査本部が作成した「遺体の状況及び死因等に関する統合捜査報告書」とそこに添付された写真などを見て見解を証言した。
同年3月3日に法廷に立った池田教授は、検察官が示す同報告書の被害者の右頸部を被写体とする拡大写真を見て「これは右の側頸部に四つの傷があるという状況です。私はいわゆる双極を持ったスタンガンによる傷というふうに思います。双極が3.8㌢のものが当たったとして特段矛盾はないと思います」とスタンガンの傷と決めつけた。
しかし、スタンガンそのものは見つかっておらず、警察官がスタンガンの箱を勝又受刑者の自宅倉庫で見つけたのが発端だった。
3月8日に出番が来た本田元教授は、被告の自白が遺体発見時の状況と矛盾があることを証言した。検察側は「被告は17年12月1日午後に有希ちゃんを車で連れ去り、2日に車で山林に連れていって同日午前4時ごろ、ナイフで刺して殺害、遺体を山林内に投げ捨てた」としている。
だが、本田元教授は、死因が失血死だったのに、遺棄現場のルミノール反応は「指を切ったか、鼻血程度の量。大量の血液が出た場合は血だまりなどができるはずで、この場だと説明できない」と述べ、血液が凝固する前に遺棄された可能性を否定。「林道で立たせたまま刺して、十数㍍離れた場所に投棄した」という被告の自白について、「遺棄現場が殺害現場であるというのはありえない」と述べた。
また、傷の深さから凶器は刃渡り約10㌢前後の細身の刃物と推定。バタフライナイフのようなものでは幅が太すぎると述べた。そのうえで、「遺体の傷は胸に集中していたことも、被害女児が無抵抗で、刺される間動いていないことを示す証拠であり、被害者は横たわった状態で刺されたものを示す証拠として特記すべきである」と述べた。
右首筋の傷について、検察側が池田教授を引き合いにしてスタンガンによる傷と主張しているのに対し、本田元教授は「これはいうなればひっかき傷。細いやや弧状をなす線状傷であるので、爪を立てた擦り傷とするのが妥当だ」との見方を示した。
スタンガンによる傷に間違いない、という池田教授の見解については、押収品と同じ型の製品を自らの手と腹部に当てて実験して、それによる傷ではありえないことを明らかにした。
同年の3月10日にはさらに検察側証人として岩瀬教授が出廷し、弁護側の本田元教授が「自白とは矛盾がある」と主張した被害者の遺体の状況や死亡推定時刻について「自白の内容と矛盾しない」と真っ向から否定した。そして4月8日に言い渡された地裁判決は、検察側の主張を完全に追認。「自白は客観的事実と矛盾しない」とした。捜査側が被害女児の解剖を依頼した教授の見方が、法廷で全否定される事態となった。
ところが、である。勝又受刑者が判決を不服として控訴し、開かれた控訴審では、東京高裁が殺害場所や時間がまだ確定していないと検察側に促し、東京高検が殺害場所と殺害の犯行時間を大幅にかえる予備的素因の変更を行い、裁判所がそれを認めることになる。「遺棄現場で殺された」ということをやんわりと否定して、一審で全否定された本田元教授の見方をも否定しない形をとったのである。しかるに、一審で証拠採用された供述調書は信用できないと判断したということだ。
しかし被害者の解剖をしていない岩瀬教授は、一審で検察側証人として出廷して「自白に矛盾がない」と証言した。証人は法廷で偽りを述べないことを誓い宣誓を行っているにも関わらず、その証言は法医学の常識的見解をはるかに逸脱したことでも「例外としてはありうるので、矛盾しない」と言い放ったのだ。
振り返ると、日本の裁判は嘘つき大会なのか、と思う。人の人生をもかえる大事な裁判の形骸化がはなはだしいし、起訴した以上、何が何でも有罪にするという捜査側の悪質さへの追随が際立つ裁判だったように思える。
読者の皆さん、覚えているだろうか。今年5月20日のISF独立言論フォーラムにおける連載「データの隠ぺい、映像に魂を奪われた法廷の人々」の第15回DNA型鑑定独占は、こうして始まった、の記事の中で紹介した茨城県警本部の鑑識課長らが警察庁に呼び出され、「筑波大では司法解剖の全例にDNA検査をしているのはおかしい。大学はやる必要はない。このことは今後、各大学や法医学会に拡げて行く」ということを言われ、その説明を受けた本田元教授が当時の日本法医学会の中園一郎理事長らに連絡、相談したことだ。
ところが、この問題の対応には「時間が欲しい」という中園理事長から「庶務委員長の岩瀬教授に相談するように」と指示され、本田元教授はなんとかしてくれることを期待して庶務委員長に相談した。
すると、これは筑波大学の問題でしかないとして、何らの危機感もなくそっけないメールの返信をした証拠が残っているのである。その岩瀬教授こそ、今市事件の一審法廷で被告である勝又受刑者の自供内容に、法医学的に矛盾はないと証言したもう一人の法医学者だ。
警察庁が司法解剖時の検査項目からDNA型検査を除外し、代わりにそれを全国の科捜研が受け持つ案を14年に明らかにし、慌てて反対したのが当時の同法医学会理事長であり、これまた今市事件裁判で被害者の右頸部の傷がスタンガンであると証言したのも池田教授だった。
しかしこの池田教授は、自ら公表した論文とは異なったことを裁判で証言しているのである。池田氏と岩瀬氏はいずれも法医学会の要職を務めた人物であることから、法医学会を誤った方向に向かわせた悪影響は計り知れないものがあるというべきである。
法医学会が冤罪を担がす基盤を築き上げるのに貢献したともいえるかもしれない。もしかするとこの2人は誤認逮捕に加担したにも関わらず、教授室に県警本部長からの事件解決への感謝状を貰って、それを自分の手柄として飾っているのではないかと危惧している。
連載「データの隠ぺい、映像に魂を奪われた法廷の人々」(毎週月曜、金曜日掲載)
https://isfweb.org/series/【連載】今市事件/
(梶山天)
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独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。