改めて検証するウクライナ問題の本質:Ⅻ ポスト冷戦の米世界戦略と戦争の起源(その3)
国際今年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻を前後し、より正確を期せば2014年2月のキエフにおけるネオナチ主導のクーデター以降のウクライナをテーマにした様々な論考で、一冊の本が少なからず引用されている。
この本が出版されたのは1997年4月だが、四半世紀の歳月を経て、現状を解説する資料として多用されているのは注目に値する。その書名を、『巨大なチェスボード:米国にとっての最優先とその地政学的重要性(The Grand Chessboard:American Primacy and Its Geostrategic Imperatives)』という。
すでに外交書の古典となっているこの本は、言うまでもなく2017年5月26日に89歳で死去するまで、ヘンリー・キッシンジャーと並び米国のストラテジストの頂点を極めたズビグネフ・ブレジンスキーの代表作に他ならない。
70年代にジミー・カーター政権の大統領補佐官(国家安全保障問題担当)を務めた以外、政権の中枢を占めた経験はないが、ブレジンスキーほど民主党を中心に政府の外交政策をリードしえた人物は皆無だろう。
学者としてのみならず、「米国外交の奥の院」とされるシンクタンク「外交問題評議会」等を通じた言論活動は格段の重さを伴って受け止められ、彼をメンターと仰いだ人脈は広範囲に及ぶ。最高顧問格に招いた元大統領のバラク・オバマは、「(民主・共和両党の)最も著名な外交政策の専門家」と賛辞を惜しまず、自身も「計り知れないほどの多くを学んだ」(注1)と述べている。
さらに「ブレジンスキーの、外交政策を担うエスタブリッシュメントへの影響力は絶大だ。彼はプーチン政権の終焉を最初に呼び掛けた人々のうちの一人であり、最初にプーチンをヒトラーに例えた人々のうちの一人でもある。
ブレジンスキーの子分(protégés)には、オバマや(元国務長官の)マデリン・オルブライト、(現国務次官の)ヴィクトリア・ヌーランド、(現大統領補佐官の)ジェイク・サリバン、(現国務長官の)アントニー・ブリンケンらがいる」(注2)との評価もある。
このうち後の三者は、現在のジョー・バイデン政権のウクライナ・ロシア政策を担当するキーパーソンであるのみならず、オバマ政権時代に副大統領だったバイデンとの下で、14年2月のウクライナクーデターの工作グループを構成していたのはよく知られている。
「ロシアからのウクライナの切り離し」
ブレジンスキーはカーター政権以降も米国外交の主流を歩んだが、特に『巨大なチェスボード』が昨今改めて注目されるのは、米国の世界戦略においてウクライナがどう位置付けられるのかを理論化したからだろう。そのため、なぜここまで米国が執拗にウクライナに関与し続けるのかを考察するにあたり、重要な手がかりを与えている。
この書では、「世界的優位をめぐる戦いが展開され続けている」ユーラシアを「チェスボード」に例えつつ、次のように説かれているのだ。
「ウクライナは、ユーラシアというチェスボード上の新しくかつ重要な空間であって、地政学的な中軸(pivot)だが、それは独立国家としてのその存在がロシアの変貌を促すからだ。ウクライナなしでは、ロシアはユーラシアの帝国ではありえない」。
「もしロシアが5200万人の人口と資源、黒海へのアクセスを有するウクライナの支配を奪い返したら、ロシアは自動的に欧州からアジアにかけての強力な帝国となるための必要手段を再度獲得することになる」。
つまり、米国にとってロシアのユーラシア支配はどうあっても阻止しなければならない以上、「ロシアからのウクライナの切り離し」こそ最優先課題となる。米国の対ウクライナ政策すべてにブレジンスキーが何らかの形で関与していたとは考えられないが、『巨大なチェスボード』の影響が乏しかったと見なすのもおよそ非現実的だろう。
ウクライナのクーデターがあった14年6月12日、ブレジンスキーはワシントンのシンクタンク「ウィルソン・センター」で講演した際、「ウクライナが抵抗できるように支援しなければならない」として、「市街地の接近戦で使用可能な対戦車兵器、対戦車携帯ミサイル、携帯ロケット弾」等の「防衛用」兵器を供与すべきだと主張した。
理由は「(ロシアの)侵略が政治的に成功するためには」、キエフやハリコフといった「主要都市を獲らねばならず」、そこでの市街戦が長期化すればロシアにとって「血の代償が多すぎ、財政的にもマヒ」するから「抑止力」が働くのだという。(注3)
だが発言での対ウクライナ武器供与が、額面通り「防衛」や「抑止」だけを意図していたとは想像しがたかった。なぜならブレジンスキーこそ、1970年代から80年代にかけてアフガニスタンのイスラム原理主義者に武器を供与し、旧ソビエト連邦を戦争の泥沼に引き込んだ最大の責任者であったという過去があるからで、ウクライナでも同じ対応を進言するはずだとの予測は突飛ではなかったに違いない。
アフガニスタンとウクライナの類似
1979年7月3日、ブレジンスキーは当時のアフガニスタンで土地改革や女性の地位向上に成果を上げつつあった親ソ連派社会主義路線の人民民主党政権を危機に陥れて旧ソ連の介入を促すため、大統領カーターからイスラム原理主義勢力への秘密の支援許可を引き出した。
これを受けて同年12月17日、CIAは後に「テロリスト」と自ら呼ぶことになるアルカイダやタリバンに発展していく同勢力への武器供与を開始する。旧ソ連軍が窮地に陥った社会主義政権を救うため、アフガニスタンに出兵したのはその1週間後だったが、ブレジンスキーの狙い通りにアフガニスタンは「赤軍にとってのベトナム」となり、最終的に旧ソビエト連邦の解体につながった。
そのため、英国屈指のロシア政治の専門家であるケント大学前教授のリチャード・サクワは、「ブレジンスキーが事実上挑発した1979年12月のソ連のアフガニスタン侵攻」は、現在のウクライナ戦争と「類似点がある」と指摘する。なぜなら、「米国はロシアを事実上挑発し、(ウクライナで)勝ち目のない戦争を始めるという罠に追い込んだ」(注4)からだ。
言い換えれば、「もしブレジンスキーがアフガニスタンにおける大惨事の実質的な設計者であるとするなら、(外交への影響力から)ウクライナにおける大惨事の重要な設計者の一人でもある」(注5)のだ。
CIAがウクライナに訓練や武器供与、ロシア軍の情報提供を含む秘密の軍事支援を開始したのがオバマ政権の14年で、さらにトランプ政権が拡大し、バイデン政権になって22年2月の開戦前からさらに劇的に強化されたが、当初からブレジンスキーの言うような「防衛」や「抑止」に留まるものではなかった。
なぜならそれは、①米軍とNATOによる、絶え間ないロシア国境付近での挑発的で大規模な軍事演習の実施、②ウクライナのNATO正式加盟を否定しない米軍との軍事一体化、③ロシアの安全保障を明文化するための一切の交渉拒否――といった、「罠」を仕掛けるのに等しい米国の対ロシア政策の一環であったからに他ならない。
こう見ると、『巨大なチェスボード』のテーゼである「ロシアからウクライナを引き離す」ことの真の狙いは、「引き離す」だけに留まらず、かつてアフガニスタンの「罠」が旧ソ連の解体を誘発したように、ひいては最終的にロシア連邦に同じ運命をたどらせようとする意図も含まれているのではないか、という疑念が湧く。
1953年7月生まれ。中央大学大学院法学研究科修士課程修了。政党機紙記者を経て、パリでジャーナリスト活動。帰国後、経済誌の副編集長等を歴任。著書に『統一協会の犯罪』(八月書館)、『ミッテランとロカール』(社会新報ブックレット)、『9・11の謎』(金曜日)、『オバマの危険』(同)など。共著に『見えざる日本の支配者フリーメーソン』(徳間書店)、『終わらない占領』(法律文化社)、『日本会議と神社本庁』(同)など多数。