【特集】沖縄の日本復帰50周年を問い直す

ウチナーンチュから聞こえる<沖縄の不条理>50年(前)

西浜楢和

■プロローグ

2022年5月15日は沖縄の施政権が日本(ヤマトゥ)に返還されて50年を迎える節目の日であった。巷間、「本土復帰50年」、「沖縄返還50年」と呼ばれる。「復帰」は沖縄が本土(日本)に帰るという意味で、沖縄側からの発話であるのに対し、「返還」は日本(ヤマトゥ)に沖縄を返すという意味で、日本(ヤマトゥ)側からの発話である。それ故、「沖縄復帰50年」、「本土(日本)返還50年」と言う語彙は存在しない。

しかし、5月15日に岸田文雄首相も出席して開催された国と沖縄県共催の式典の名称は「沖縄復帰50周年記念式典」であった。この名称に筆者は大いなる違和感を持つ。日本政府が沖縄を47都道府県の1県と処遇して日本に復帰させてやったのだとの意思をここに見るからである。宗主国としての日本政府にとっては祭典気分だったろう。筆者は「復帰」や「返還」と喧伝されるこの事象を「沖縄の(日本)再併合50年」と位置付ける。

一つの出来事に対して沖縄から見た「復帰」と本土(ヤマトゥ)から見た「返還」とがあるが、「復帰」がとりわけ取り上げられるのは沖縄側である。「元に戻る」という出来事が、問い返す必要な問題として沖縄に突き付けられているからである。何も問題がなければ見過ごす、それが本土側である。問い返しの必要な沖縄でも、その検証は政治的、社会的側面からおこなわれる場合が多いが、そうした「大きな物語」としてではなく、1972年5月15日を契機に「世替わり」と称された前後の時代を体験したウチナーンチュが生活領域から、復帰とその内実を如何に問い返していったのかを本稿で映し出したい。

聞き取りは9名のウチナーンチュからおこなった。調査に協力いただいた方々は筆者の知人で、いわゆる活動家とは限らないが沖縄の現状と真摯に向き合おうとされている人たちである。質問項目はあらかじめ全員に配布し、聞き取りは個別におこない、要した時間は一人平均1時間40分ほどであった。調査結果については本名の必要はないので仮名表記としている。

プライベートなことを含めて調査に協力くださったみなさまに心から感謝いたします。[i]

 

■日本国家への包摂を進める結果となった復帰運動

問:復帰運動との関わりはどのようなものでしたか。

[島袋]沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)を意識し始めたのは小学生になってからで、提灯行列をするようになってから。「復帰」に熱心だったのは学校の先生に多かった。

沖縄県祖国復帰協議会 第11回定期総会(1966年2月4日)

 

[金城]1966年、琉球大学に入学し、復帰行進に友だちと3回ほど行った。

復帰要求行進(1966年4月11日~27日)

 

[大城]1961年小学校入学。記憶にあるのは行進団が西原村(当時)内を通るよということで、図工の時間に日の丸の小旗を作らされた覚えがある。行進団が学校の前を通った時、小旗を振った。日の丸はお正月に掲揚するということで、学校で各家庭に注文を取らせたんです。注文させられるわけですよ。組合がやっていたんでしょうね。

[高良]子どもが産まれた頃だったので復帰行進に行ったことはないが、1967、68年頃は「平和をつくる沖縄キリスト者の会」の若者たちといろんな集まりに参加していた。夫は海上行動にも行きましたよ。

[宮城]1967年に琉球大学に入学し、この年1回だけ復帰行進に参加したことがある。本部から歩き今帰仁で泊って辺土名で泊って翌日船に乗り海上行動に出た。

[比嘉]1963、64年普天間高校1年、2年生の時3回ほど参加した。クラスの学友から「復帰行進が来るぞ」と誘われ、先生からも「行ける人は迎えに行ってください」と言われ、復帰行進の人と一緒に日の丸の旗を振って「ヤンキー!ゴーホーム!」と叫んだことは今でも覚えている。米軍支配から本土に復帰したいとの思いはずっとあって、平和憲法の下に復帰したら沖縄は平和になると小学校から教えられていた。沖縄教職員会(現沖縄県教職員組合)を中心とした運動は祖国復帰に憧れて先生たちも教育をし、ぼくらも「方言札」を渡されるくらい日本人化教育、同化教育も盛んにおこなわれていた。

問:復帰行進の印象を覚えておられますか。

[島袋]灯りが乏しい頃だったので、お祭りのような感じだった。デモを取り締まる警察なんてまったくないし。

[金城]異民族の支配下に置かれ、「祖国に帰る」は悲願でした。祖国は母の懐。そこに帰ったら基地なし本土並みの平和な沖縄になると信じて疑わなかった。

[大城]先生方が一所懸命で地域の人もがんばれよという雰囲気ですよ。

[宮城]行進をしながらカンパを募るんですが、貧しい家が多かったので心苦しかったことを覚えている。「母なる祖国」に帰るのだというのには疑いはあった。復帰協は「祖国」という言葉を使っている。学生の中でその辺の抵抗はかなりあったけれど米軍支配からの脱却という気持ちの方が強かった。とりあえず復帰するしかないんじゃないかという気持ちでしたね。

[比嘉]大人たちが元気を出して晴れ晴れした行進だったと覚えている。「ヤンキー!ゴーホーム!」と叫んだことは強烈に覚えている。(生まれて)初めてのデモだった。

当時5歳で参加したことのない[安里]、奄美大島にいた[新垣]とまだ生まれていない[伊佐]、この3名以外が発言している。米軍支配からの脱却のためには復帰の道を選択する以外にないという意見が多く、それを先導したのが教員(沖縄教職員会)だったことが分かる。当時でも「方言札」を渡されていたのだ。先行研究でもすでに明らかにされているように、戦前も戦中も戦後も教員はヤマトゥ化教育の推進役を果たしていたのである。発言の中でその記憶が語られている。一方、復帰行進は晴れ晴れとした雰囲気だったようだ。

「母なる祖国」に帰るのだというのに疑いを持っていた[宮城]と「祖国に帰る」は悲願で、「祖国は母の懐」と信じて疑わなかった[金城]は、同じ年(1947年)に生まれ同じ琉球大学生だったにもかかわらず位相が異なっている。[宮城]は文芸サークルにかかわっていた影響もあったのであろうか。

■ウチナーンチュが誇りと自信を取り戻したコザ暴動[ⅱ]

問:1970年12月20日にコザ暴動が起きました。その時は何歳で、何処で何をされていましたか。当時、どのような感想を持たれましたか。

[島袋]一矢報いたと。今まで叩かれ続けてきたものが殴り返したんだなと。近くだったら行ってただろう。

[金城]夫(となる人)と一緒に“やったね”と溜飲を下げた。

[大城]翌日21日の朝のことはよく覚えています。学校に行くためバス停でバスを待っていた、目の前でパトカーとクルマが停まり20歳代の若者が「今、コザで大変なことになっている。クルマが燃えている!」と興奮して叫び、そしてスーと行くわけ。あの頃はひどい状況で米軍が事件、事故を起こしても無罪放免になる、みんな怒りを感じていたので、非難するとかということはなかった。

[新垣]この時は5歳でまだ奄美大島にいた。昨年2021年、コザで沖縄市主催の「コザ暴動写真展」があり見に行った。会場で市職員に「コザ騒動とコザ暴動のどちらが正しい言い方ですか」と質問したところ、「私たちは『コザ暴動』として扱っています。日本政府は大ごとにしたくないので騒動ということにしたかったのでしょう」と説明してくれた。

[安里]15歳で中学生。黒人に対する暴力はなかったと。アメリカ社会の中で黒人は差別されている。私たちも日本国の中で差別されているということが重なっての行動だったんじゃあないでしょうか。そういう中でも整然とした行動があったと思ってます。

[比嘉]多分寮のテレビで観て興奮した。感動!感激!凄いことをやったなぁ、これが沖縄の民衆の力だと拍手喝采だった。子どもの頃、強大な米軍を打ち倒せないと教えられ、打ちひしがれて生きてきたけれど、そうじゃあないんだと、反対にそこから力をもらって“これはやれる”という誇りと自信を持った。

[宮城]現場に行ってないが凄いなと思った。“シタイヒャー!”(でかした。やった!)と。騒動、暴動と二通りの言い方があるが、ぼくは暴動と言う。アメリカ軍は暴動と、だから参加したのは暴徒だと。新聞は騒動と言ってますね。地元では暴動と言ってます。

近くだったら行っていた[16歳で高校生の島袋]、“やったね”と溜飲を下げた[金城]、スカッとした[16歳で高校一年の大城]、“シタイヒャー!”[23歳で琉球大学生の宮城]、感動!感激!拍手喝采[23歳で大学生の比嘉]に見られるように、コザ暴動に圧倒的共感を寄せていることが分かる。

[比嘉]が言うように、コザ暴動は“これはやれる”という誇りと自信をウチナーンチュに与えたといえる歴史的大事件であった。

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西浜楢和 西浜楢和

2005年、琉球大学大学院修士課程修了。2009年、大阪市立大学(現・大阪公立大学)大学院博士課程単位取得退学。研究テーマは「沖縄・琉球とヤマトゥの関係史」、「琉球独立論の思想的系譜」。

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