【連載】改めて検証するウクライナ問題の本質(成澤宗男)

改めて検証するウクライナ問題の本質:XV NATOの秘密作戦Stay-behind の影(その3)

成澤宗男

前々回の項から指摘しているように、2014年2月20日の警官隊・デモ隊双方への銃撃事件がなかったら、「親ロシア派」とされたヴィクトル・ヤヌコビッチ元大統領の打倒を狙ったクーデターの成功は疑わしかった。

ひいては続くドンバスの内戦のみならず、今回の戦争も防げた可能性が極めて高い。だがそれほどの重要性を有するこの銃撃事件に関し、未だに実行犯の処罰すらできていないのは不自然というほかない。

ただ本来、この事件はそれほど複雑ではない。以下の確定している三つの事実を踏まえるならば、すぐに実行犯が特定できる構図となっている。

第一に、警官隊・デモ隊の死傷者は同じ弾丸で撃たれているという点。第二にあらゆる現場の目撃者や記録画像・動画、医学的資料は、当時ネオナチや極右を主体とした反ヤヌコビッチ勢力が占拠していた建物(ホテル・ウクライナ、音楽院等)からの狙撃があったのを示している。

ヤヌコビッチ元大統領は当時を振り返って「警察に射撃命令は出していない」と断言しており、警官隊が警官隊を狙撃しなければならない理由も考えられないから、実行犯は当時の反政府勢力に絞られてくる。

そしてそれと関連するが第三に、マイダンと呼ばれた抗議行動の現場は無秩序状態ではなく、「司令官」と呼ばれる一人の人物がそこを仕切っており、特に銃器の管理が厳しかった。その「司令官」こそ、アンドレイ・パルビィ元ウクライナ議会議長に他ならない。

パルビィ元議会議長は銃撃事件のみならずクーデターのキーパーソンと考えられ、一連の事態の全貌を把握していたのは間違いない。だが、捜査当局がパルビィを尋問した形跡は乏しい。その理由は、単純だろう。

パルビィ元議長らクーデターで権力を握った集団が銃撃したからこそ、自分で自分を摘発するような真似はしないということだ。しかも実行犯は「仲間」であるはずの抗議行動参加者を射殺している以上、なおさらに違いない。

前々回の項で紹介した、この銃撃事件を最も深く研究しているカナダのオタワ大学のイワン・カチャノフスキー教授は「ウクライナ政府による調査は、2014年2月20日に反ヤヌコビッチ勢力支配下の建物から狙撃兵が、デモ隊と警察の大量虐殺を実行したという圧倒的な証拠があるにもかかわらず、狙撃兵の存在を否定している」(注1)と指摘しているが、その「事実」を認めたらクーデターの正当性が完全に崩れる。クーデター以降の政権が、銃撃事件の真相を解明できるはずがない。

極右・ネオナチのルーツ

実際、クーデター後に議会内でこの事件の「調査委員会」が設置されたが、当時「祖国」に所属していたゲンナジー・モスカル委員長は「(事件発生)1週間後に多くの重要資料が破棄され、捜査が困難になっている」(注2)と発言している。

一方で、『ニューヨーク・タイムズ』や『ワシントン・ポスト』、『CNN』といった欧米主要メディアも真相に迫った報道が乏しい。これも、彼らが流布した「銃撃したのはヤヌコビッチ政権側」というニセ情報が否定されてしまうからだろう。

当時、狙撃者が利用した建物を占拠していたのは、主に前回述べた「スヴォボダ」に加え、「右派センター」と呼ばれる同じ極右・ネオナチの二派であり、いずれもパルビィ元議長が深く関わっていた。

パルビィ元議長は1991年10月、20歳でウクライナのネオナチの最大拠点・西部リヴィウ市で「社会民族党」を結成。この党については、自国の極右に関する研究者であるウクライナのアンデレアス・ウムランドとアントン・シェホフツォフの共著論文「ウクライナ独立後の極右政党政治と1994年から2009年にかけてのウクライナ超国家主義の選挙における少数派状態」で、以下のように解説されている。

「様々なウクライナ民族主義政党の中で、社会民族党はネオ・ファシストとの関係を隠す傾向が最も薄かった。……社会民族党のイデオロギーの正式名称『社会民族主義』は、ヒトラー政権のイデオロギーの正式名称である『国家社会主義』と明らかに関連付けられていた。

社会民族党の政治綱領は、その公然たる革命的超国家主義(revolutionary ultranationalism)やウクライナの権力の暴力的奪取の要求、ウクライナのすべての悪をロシアのせいにしようとする姿勢によって特徴づけられた」(注3)。

この「社会民族党」のシンボルマークは、ナチスドイツの第2武装親衛隊(SS)装甲師団ダス・ライヒが使用していた「狼の鉤」(Wolfsangel)を少し変更したもの。東部ドンバスでのロシア系住民に対する虐殺行為で悪名高い「アゾフ大隊」にも使用されており、ウクライナのネオナチのルーツがうかがえる。

ナチスドイツのSSに酷似したマークを使用する「アゾフ連隊」

 

パルビィ元議長はその後、「1998年から2004年にかけて社会民族党の準軍事組織である『ウクライナの愛国者』を率いた。この『ウクライナの愛国者』は自身の公然たる人種差別主義やネオナチの政治信条、そして暴力を目的のための手段として推進する姿勢を公にしていた。……パルビィは2013年から2014年2月まで、民主的に選出された大統領のヤヌコビッチを打倒し、国会を恐怖の支配下に置いたクーデターの軍事部門の指導者となった」(注4)。

「スヴォボダ」の登場

この「ウクライナの愛国者」は、04年にパルビィの「社会民族党」からの離脱によって解散するが、これに加わっていた暴力主義的傾向が著しいメンバーは、08年に結成されたより広範な極右・ネオナチの集合体である「ウクライナ社会民族会議」の中核を担っていく。

この「ウクライナ社会民族会議」はやはり「狼の鉤」をシンボルとし、国内で外国人への襲撃を繰り返した後、パルビィ元議長の指揮下でマイダンにおける警官隊攻撃の実力部隊に発展した。「ウクライナ社会民族会議」の中でも特に有名なのが、「右派セクター」だ。

この集団は「最も暴力的」で、「『スヴォボダ』すらリベラルすぎると考える幾つかの過激でファシスト的な極右グループの連合体」(注5)とされる。さらに例の「アゾフ大隊」も、この「ウクライナ社会民族会議」のメンバーを主体としていた。

こう見るとパルビィ元議長が結成した党から、現在のネオナチ国家としてのウクライナの特徴を成す野放しの政治的暴力(その圧倒的部分は共産党を始めとした左派や反対勢力、国内外国人に向けられた)の主体である、様々の極右・ネオナチが派生した事実が明らかとなろう。だがパルビィ元議長の政治的狡猾さは、いつまでもこうしたナチスドイツの「突撃隊」に酷似した集団の頭目に甘んじなかった点にある。
「(パルビィ元議長は)暴動を得意とするファシズム運動の指導者として名声を博したが、2004年にナチスを思わせるようなあからさまな言動を放棄し、組織の再ブランド化を図った。匿名を条件にある情報筋は、この再ブランド化は、パルビィら指導者やその組織をより西側の宣伝工作に適合できるようにするため、彼らの背後にいたCIAが指示した戦略だったと語っている」(注6)。

ウクライナの極右・ネオナチとCIAの関係は後述するが、この「再ブランド化」とは、具体的にはナチスドイツを思わせるような党名を「自由」という語の「スヴォボダ」に変えたことを意味し、党首にはかつてパルビィ元議長と共に「社会民族党」を結成した、前項でも触れたオレフ・チャフニボク氏が就任した。なお当時チャフニボク氏自身は野党の党首に徹し、過激なマイダンでの暴力活動とは一線を画している。

演壇でナチ式の敬礼をする「スヴォボダ」
党首のオレフ・チャフニボク氏

 

だが実際はパルビィ元議長が去ったとはいえ、「スヴォボダ」の加盟員の多くが警官隊との乱闘に加わり、「スヴォボダ」自身の主張から極右・ネオナチ色を払しょくしたとは到底思えない。

その綱領は、①議会制の廃止と全政党の禁止②ウクライナへのロシアを始めとした文献の輸入禁止③ロシア語圏の知識人と住民の物理的清算④ロシア語を話す知識人、ウクライナ人嫌悪の人間の物理的処分⑤反ウクライナ政党のメンバー全員の処刑――等々、ナチスドイツとの共通性が極めて顕著だ(注7)。それでもクーデター前の2012年のウクライナ最高議会選挙では、37議席を得ている。

 

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成澤宗男 成澤宗男

1953年7月生まれ。中央大学大学院法学研究科修士課程修了。政党機紙記者を経て、パリでジャーナリスト活動。帰国後、経済誌の副編集長等を歴任。著書に『統一協会の犯罪』(八月書館)、『ミッテランとロカール』(社会新報ブックレット)、『9・11の謎』(金曜日)、『オバマの危険』(同)など。共著に『見えざる日本の支配者フリーメーソン』(徳間書店)、『終わらない占領』(法律文化社)、『日本会議と神社本庁』(同)など多数。

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