シリーズ日本の冤罪㉒ 大崎事件:再審開始に向けて積み上がる「無罪」の証拠
メディア批評&事件検証病床に臥している94歳の原口アヤ子さんは、声にならない声で必死に訴え続けている。
「私は犯人ではない、私は殺人犯などでは決してない」と。極悪な犯人とされ逮捕・起訴されても、裁判の途上でも、そして刑期を終えた現在も、一度も自供したことはない。犯してもいない罪を自白するわけにはいかないからだ。言葉にすれば当たり前のことだが、本シリーズ(紙の爆弾シリーズ連載「日本の冤罪」)を読んできた方は、それがどれほど困難なことか、その一端をご存知だろう。
40年以上にわたり数奇な運命をたどった原口アヤ子さんと「大崎事件」は、再審無罪獲得まであと一歩のところまでたどり着いている。
・〝共犯者〟の自白の変遷
事件の舞台となった鹿児島県大崎町は、大隅半島東部に位置し、国際港湾を擁する志布志市に隣接する人口1万3000人あまりの静かで小さな農村地帯である。
ここで今から43年前の1979年10月15日、“殺人事件”が起きた。主婦・原口アヤ子さんの義弟(夫の末弟)・四郎さん(仮名。以下同)が自宅横にある牛小屋の堆肥の中から遺体で発見されたのだ。誰かが遺棄したのは明らかだった。
その直後、それぞれ四郎さん宅の隣に住む、アヤ子さんの夫で四郎さんの長兄・一郎さんと次兄・次郎さんが任意同行され、すぐに犯行を自白し逮捕される。
ただ、このときの自白は、「殺人と死体遺棄は一郎と次郎の2人でやった」というものだった。
ところがその後、彼らの自白は、「殺人についてはアヤ子の指示でやった。アヤ子が主導者だ」と変わり、さらに、「死体遺棄については、次郎さんの息子の太郎さんも手伝った」と、犯行に関わったのが2人から3人、3人から4人と変遷していったのだ。
実は冤罪事件においては、自白の変遷はよくある。警察や検察の厳しい取調べに耐えかね、やってもいない犯行を自白してしまえば、当然、その内容はあいまいだ。犯行ストーリーに合わせるために、供述を変えることになる。
自白が信用できるものとなるためには、客観的な証拠による裏付けが不可欠だ。ところが、この事件では客観的な証拠が何もなかった。
一郎さんの自白は、「タオルで力いっぱい四郎さんの首を絞めて殺した」というものだった。にもかかわらず、そのタオルさえ特定できていないのだ。そのため、この事件はDNA鑑定が不可能だった。
ところが、共犯者とされる3人、一郎さん・次郎さん・太郎さんは、法廷でも自白を維持したままだった。
前述したように、冤罪事件では多くの場合、過酷な取調べによる虚偽の自白がつきものだ。それでも、法廷に立った時には、「実は私はやっていないんです」と、自白を翻すケースも多い。
ところが、大崎事件の3人の共犯者は、法廷でも争わなかった。実際には、何を聞かれてもろくに答えられなかった、というのが実情のようである。そして控訴もせずに刑が確定している。
一方、当時52歳だったアヤ子さんは、ただの1回も自白していない。しかし、共犯者3人が自白していることで、逮捕からわずか5カ月後の80年3月31日、鹿児島地裁は懲役10年の有罪判決を下した。もちろんアヤ子さんは控訴・上告したが棄却され、10年満期の服役をして、出所後に再審請求を行なうに至ったのである。
雑誌記者を経てフリーのジャーナリスト。事件を中心に社会・福祉・司法ほか、さまざまな分野を取材。袴田巖氏の密着取材も続けている。