【特集】原爆投下と核廃絶を考える

軍都・広島の戦争加害ー横浜「戦争の加害」パネル展で特集展示ー

植松青児

毎年8月になると戦争被害を継承するイベントが各地で行なわれるが、日本の戦争加害に焦点を当てたパネル展は数少ない。そんな中、横浜市のかながわ県民ホールでは8月2日〜9日に第7回「戦争の加害」パネル展が開催される。これは映画「ジョン・ラーベ」上映会を契機に集まった市民が結成した「記憶の継承をめざす神奈川の会」が毎年開催しているもので、南京事件、731部隊、毒ガス兵器、日本軍のマレー侵略と住民虐殺、日本軍「慰安婦」、朝鮮人・中国人強制連行など10以上のテーマでパネル展示を行なう。

個別のテーマへの理解を深めてもらうと同時に、日本の戦争加害の全体像を捉えてもらうことに重点を置いている。筆者は第3回から同会に参加し、準備に携わっている。

さて今年の第7回では「軍都・広島と戦争加害」をテーマにした約30枚のパネルが特集展示される(筆者をはじめ4人で共同制作した)。

原爆が落とされ、多くの人が殺傷された広島が、「戦争の加害」というテーマとどう関係するのか、違和感を持つ方も少なくないだろう。しかし戦前の広島は戦争加害に深く関与し続けた代表的軍都であり、戦前日本の縮図のような街だった。広島の歴史と向き合うことで、戦争加害の問題がより鮮明に理解できるはずである。

・知られていない「軍都・広島」

広島の軍都の歴史は1894年の日清戦争で本格的に始まり、1945年の原爆投下で終わるが、その50年のあいだ、広島が日本最大の「海外への出撃拠点」であり「兵站基地」であり続けたことはあまり知られていない。

日清戦争では明治天皇や伊藤博文首相(当時)が広島に滞在し大本営を設けて戦争の指揮を取ったことも、国会議員もやってきて広島で臨時国会を開いたことも、日露戦争では人口60万人以上の将兵がいったん広島に向かい、広島市の宇品港から海を渡り戦場に向かった(ちなみに当時の広島の人口は約16万人)ことも、広くは知られてはいない。これらの事実は広島がただの「軍都」の1つではなく、飛び抜けて重要な役割を担わされていたことを示している。

また日清戦争の翌年には、広島から「出征」した日本軍が台湾に向かっている。台湾は下関条約で日本の領土とされたが、それに抗う人々が「台湾民主国」樹立を宣言し、これを「平定」するために日本軍が広島・宇品から出撃したのである。軍都・広島はその当初から、帝国主義・植民地主義の戦争拠点だったのだが、このことはさらに知られていない。

そして日清・日露の2つの戦争を経て、広島にはインフラ予算が優先的に投入され、多くの軍需工場(兵器・軍服・食糧など)が建てられ、人口は拡大していく。その人口拡大は商・サービス業の発展を促し、広島は「戦争で潤う街」に変貌していく。日清・日露戦争後、全国各地の都市が軍隊の招致合戦を繰り広げるが、その成功モデルが広島だったのである。

また、海外から船で軍隊が帰還するたび、凱旋行事が行なわれる。戦闘に勝利するたび、祝勝行事が行なわれる。広島での凱旋行事、祝勝行事は人々を「国民化」していくイベントとして、全国の祝勝行事の「モデル」にもなった。

戦争で潤い、戦勝を祝い、次の戦争をなんとなく期待する戦前の日本社会、その縮図のような街が広島だった。これは筆者自身にとっても、今回の特集パネルを制作する中で、あらためて感じたことだった。

残念なことに平和運動の内部でも、原爆投下以前の広島の軍都史について広く共有されてはいない。日本では「ヒロシマ」についての語りは1945年8月6日から始まり、8月5日までの「廣島」は忘却されている。たとえば、1937年12月に日本軍が中国の首都・南京を武力占領した時、広島市民は街頭で大掛かりな祝勝行事を行なっていたが、そのような歴史的事実が継承されることは、平和運動の内部でもほとんどない。

しかし、それで良いのだろうか。

24 march 2019, Hiroshima – Japan: Hiroshima Victims Memorial Cenotaph at Memorial park and hall

 

・複数の暴力が交差した街・広島

筆者の母方の祖父は8月6日に入市被ばく(原爆投下後に市内に入り放射線被曝する)した被害当事者ではある。しかし、8月5日までは土木会社の社員として朝鮮人労働者を使っていた、植民地主義の加害当事者だった。では彼のような日本人は広島の街で例外的存在だったのだろうか。同じように「8月5日までは加害当事者で、8月6日は被害当事者」だった者は広島に多く存在したのではないか。

それだけではない。広島を本拠地とする陸軍第5師団は、日清戦争から1945年の敗戦まで、繰り返し海外に出撃し戦闘を展開し、陸軍中枢からは「精鋭部隊」として評価された。その「精鋭部隊」は1942年にマレー(現:マレーシア)で子どもを含め多くの住民を虐殺している。当地で家族を殺され、自らも深い傷を負った人の何人かは戦後、広島を訪れている。マレーの人々にとって広島は「原爆を投下された街」である以前に「自分たちを殺傷した軍隊の本拠地」だったのだ。

広島は原爆という巨大な暴力(=広島への暴力)による被害を経験したが、いっぽうでは「広島からの暴力(広島からの侵略軍)」や「広島での暴力(強制労働動員)」の歴史も存在した。複数の暴力が交差した、複数の側面を持つ街として、広島を「語り直す」必要があると筆者は考える。

Atomic Bomb Dome in Hiroshima. Building destroyed by the atomic bomb in Hiroshima, Japan.

 

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植松青児 植松青児

1960年生まれ。雑誌デザイナー、TV局のテロップ校正、百貨店勤務等を経て2018年より雑誌編集者。執筆記事に「アジアの人々と『ノーモア・ヒロシマ』は共有可能か 被爆者・沼田鈴子さんの実践に学ぶ」(「金曜日」2020年7月31日号)、「佐渡金山の世界遺産推薦問題に「歴史戦」とやらの余地はない 朝鮮人労働者への「差別」「強制」の事実は地元の町史にも書かれている」(朝日新聞社言論サイト『論座』2022年2月7日https://webronza.asahi.com/politics/articles/2022020200002.html)ほか。

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