【連載】安倍晋三の射殺と三代の腐れ縁(藤原肇)

第2回 安倍晋三の射殺と三代の腐れ縁①

藤原肇

私が朝鮮文化の真髄に目覚めた契機は、韓国で得た人脈の中で黄金の輝きを持って存在した、『韓国経済新聞』の李(揆行)社長の知遇を得て、秘密情報を学んだお陰だった。それは『地球発想の新時代』に収録した記事で紹介したが、人生の出会いは貴重で次のような形で始まり、この出会いで私の朝鮮理解は花開き、他者の追従を許さない水準になったのである。

「・・・40代の半ば近くのソウルでの体験があります。鶴山奨学財団の申さんの引き合わせで、李さんという人に会ったときのことです。お互いに自己紹介をして名刺を交換したときに、李さんが 『私は李といって韓国経済新聞の社長をしています』と言ったので、 私は反射的に『ああ、日本経済新聞の韓国版ですね』と気軽に応答してしまったのです。

そうしたら李社長は毅然とした口調で、『藤原さん、そんな失礼なことを言わないでください。韓国のジャーナリズムのことをご存知ないから、あなたはそんなことを口にされたのでしょうが、あなたが【日本経済新聞】を【野村新聞】とか、【虎ノ門新聞】と書いているのを知っています。われわれはジャーナリストとしての自覚で、命を賭けて記事を書いているつもりです。政府がけしからんといって、うちの記者が書いた記事の内容に干渉すれば、私は社長としてそこを自紙のままでも断固として新聞を発行します。

確かに、経済的実力では韓国は日本の弟であり、日本経済新聞に比べたら、私の新聞は発行部数も少ないし、広告の量やページ数も少ないかもしれません。

しかし、公正な経済活動や言論の自由に対して、政府や一部の不心得者が挑むときには、ジャーナリズムは何をすべきかにつ いて私たちは十分に心得て、言論活動をしているつもりです」と言われ、私は無意識に犯した過ちに気づき、自国のジャーナリズムの姿勢や日本の新聞の政府べったりの記事を思い出して、思わず恥ずかしさで赤面しました。

その時は随分と思い切ったことを言う人だと思いましたが、相手の言うことに筋が通っていたので自分の不明を恥して謝りました。しかし、今にして思うと日本のメディアの堕落は、カネぼけと事なかれ主義そのもので、リクルート事件で日本経済新聞の社長が、社内規定で禁止されている株の取引で儲け、辞職した事実が示す通りであり、李さんの言葉が証明されてしまいました。

しかも、日経の社長は解任ではなくて辞任にすぎず、けじめを明確につけることもしていません。多く の先人たちが何十年もの時間をかけて、『中外商業』という株屋の新聞から育てあげ、現在に至った苦難に満ちた伝統を始め、何千人かの社員の士気を損なったというのに……。」

こんな骨のある新聞の発行人は初めてだったので、それからは親しく付き合うに値する人として、李さんには尊敬の気持ちで接したから、『韓国経済新聞』には多くの私の記事が掲載されている。彼は東京特派員時代に『石油危機と日本の運命』を読み、私の熱烈な読者になったこともあり、李さんは拙著が出ると紙面に紹介し、記事の抜粋を載せていた関係もあって、初めて会った時から百年の知己だった。

韓国における彼の立場は戦前の同盟通信社長に匹敵し、政界や財界の幹部は彼の親友やシンパであり、韓国が誇る教養と見識を持つ国際レベルの新聞人だが、王族の系譜に属す一員かも知れなかった。だから、彼と親しくなり色々と議論をしたが、一緒に古本屋巡りをしながら意見を交換し、韓国政府の内情を始め朝鮮文化の秘密に関して、貴重な情報やノウハウを学ぶ興奮を楽しんだ。そうだ

ここだけの話だから他言は無用だよと言って、教えてくれた情報としては、韓国の財界のトップを始め軍隊の幹部の多くが、北朝鮮の出身者であるそうだし、彼らの祖地は満州から沿海州方面に広がっていた。しかも、北朝鮮系はツングースで騎馬民族に属すから、格闘術には優れて強靭であり、体力だけでなく頭脳でも優れている者が多いので、侮ったらいけないとの話だった。

しかも、合同結婚式で統一教会の話をした時に、この教団のことを喋ったら、李社長は苦笑しながら「貴方までが誤解して統一教会などと言うが、あれは統一グループであり、財閥まがいの商社だよ」と言った。それに続けて「しかも、金儲けが目当てであり、錬金術に熱心な詐欺商売だし、韓国では宗教に属すとは誰も考えないのに、日本人だけが宗教だと信じて騙されているんですよ」と断言した。

しかも、この先は機密だから書いたらダメだと強調して、統一教会は保安部(KCIA)が反共工作の実行を看板に使い、仕事を担当している組織だし、米国内と南米においてCIAの裏工作を請負っている。それがコリアゲートであり、露見して失敗したために米国では商売に徹するし、韓国にはキリスト教があって淫猥な集団と別だから、韓国において文鮮明は単なるカルトの頭目扱いだ。

しかも、布教の対象は日本人だけだが、韓国では雑貨から食料品まで金になる物は何でも作り、朝鮮ニンジンの薬やジュースの販売もしているよ、と眉を顰めながら説明してくれた。

『韓国経済新聞』で李さんは社長だけあって、極秘情報に精通しており、積極的には喋らないけれども上手に質問をすると、それとなくヒントの形で国家機密を漏らすから、それを後で組み立てるだけで良い。韓国の小さな財閥とか軍隊の幹部層の多くが、北鮮系の人間だという話を始め、政府系に属す企業には師団長クラスが陣取るし、政府の局長クラスになるとシカゴ大のOBが多いとも聞いた。

ソウルに招かれて講演した時に李社長が現れて、講演の内容を翌日の朝刊に全面記事の形で出すと言ったので、翌朝に町のキオスクに行き、5部ほど新聞を買い求めた。ところが、幾ら探しても記事がないので李社長に文句を言ったら、どこで買ったかと聞いたので町のキオスクで買ったと言うと、それではだめだと大笑いして秘密を教、十部ほど新聞をホテルに届けてくれた。

『韓国経済新聞』には一般版と特別版の二種があり、特別版は政府幹部や財界のトップにだけ届けられ、世界の主要新聞の記事や重要記事の抜粋情報で、紙面が構成される仕組みになっていた。

だから、私の講演した記事は特別版だけに掲載され、町のキオスクで売る一般向けには同じ新聞でも出ておらず、そんなシステムの存在に私は目を見張ったが、そこにインテリジェンスの力を見た。

しかも、特別版では驚いたことに記事に漢字が多く、ハングルだけの一般紙に較べ印象が全く異なり、軍事政権下だとは言っても、特殊なエリート教育が格差を伴って存在していたのは確かである。

しかも、古典を読むために漢字を知る必要があり、それが理由であると教えられて成程と思い知らされたが、若い世代の読書力の低下に悩むと言われたので、油断大敵であると痛感させられた。

首都のソウルを中心にして、「朝鮮日報」「中央日報」「東亜日報」という三大新聞が君臨するがどれも政府寄りの全国紙であり、「読売」や「サンケイ」に似て保守的だし、「京郷新聞」が中道であるという。「中央日報」の提携先は「時事」や「日経」であり、これは三星財閥の李秉喆が創刊し、リベラルの「ソウル日報」と並び、1987年に「ハンギョレ新聞」がリベラル派として登場している。

韓国は隣国だのに日本人は、韓国の新聞がどんな性格を持つのか無関心だし、日本の言論人の引用は韓国のが軽蔑する三大新聞に偏って、誰も『韓国経済新聞』には注目しない。それにしても、.李揆行社長に出会ったお蔭で、KCIAや統一教会の生態に関して色々と学んだお陰もあり、表にはあまり登場しない裏情報が集まり、断片に属すそうした話が意外に役に立った。

李さんに誘われて古本屋巡りをした時に、ある店の二階に行き書庫に案内され、そこに満州に関係する日本語の書籍や資料が山積みで、思わず目を見張ったことがある。彼の説明によると日本は米ロ中の三国が隣接国で、欧州の帝国主義から学んで経済大国になったが、朝鮮は日米ロ中が隣接国だから、満州を加えて国家戦略を構築するならば、日本を追い抜けるはずだと言い張った。

だから、満州の情報は貴重であり、若手には今の日本より満州の研究をさせて、国づくりをしていると聞いたので油断ならないと痛感したが、ノー天気な日本人が金儲けに終始し、消耗している現状を私は憂慮した。

実際に、ソウル大学を卒業した優秀な学生の多くがシカゴ大学を目指しており、申さんの息子もそうだったし、彼の奨学金財団でも米国留学に重点を置いていた。別の貴重な体験として申元植さとの出会いについて、『ジャパン・レボリューション』に次の記録が書いたが、私はこの韓国人の言葉に大きなショックを味わった。

ショックは普通には破壊的な衝撃を伴い、立ち直りが困難なほど打ちのめされることが多いが、幸運にもこのショックは人生に転機を与えてくれ、その後の私の運命を変えている。しかも、私は数年後にビジネスから足を洗い、世の中の役に立つ形で立ち直り、次の世代のための生き方を目指したから、残りの半生が豊かで悔いのないものになった。

「・・・40代の初めまでテキサスで石油開発に従事し、石油会社の経営で得意だった頃の私は、あるとき大韓石油協会の総会で講演をして、韓国の政財界の要人と親交を結んだが、その時の体験が私の人生を大きく変えた。晩餐の席で日本語が上手な申さんが『藤原さん、幾つだい』と尋ねたので、『42歳です。今年は厄年だから厄が落ちたら テキサスで…』と言うと、『40歳を過ぎてビジネスをやっているのは、人間のカスだよな』と言われてムッとなった。そこで座り直し『何を失礼な』と言おうとしたら、『40歳を過ぎて、人類のためになるようなことをしなかったら、生きている甲斐がないよな・・・』と言われて大ショックを味わったのである。

韓国にこんな人物がいると予想もしなかったが、この人は起亜自動車の会長を40歳で退き、全財産を投げ出して奨学金財団を作り、人材の育成を余生の楽しみにしていた。そこで私は1年かけてビジネスを整理し、若い人たちに石油会社を分配することで、完全に自分の時間を支配する人生を始めて、『申さんショック』を乗り越えることができた」。

申元植さんに関してはどこかに詳しく書いたが、どの本か不明なので書き改めて紹介すれば、両班出身である申さんは、小学生の時に日本に行き、華族の学校の学習院に入学したという。だが、苛められたので1年で帰国し、朝鮮戦争の時は軍人だったが、30代の半ばには新聞の編集長をやり、財界に転じて自動車会社では、社長や会長を経験して40の時に引退したそうである。

そして、ソウル大学の隣接地に四階建てのビルを建て、1階は事務所と会議室で2階は学生の自習室、3階は工学関係の図書室で四階に会長室を置き、奨学金を与えるのが彼の晩年の人生だった。申さんは倉敷で生まれた大原孫三郎の韓国版で、鶴山経済研究所を組織して人材を育て、遺跡や民芸の保存を始め文化財を守る点では、「縁の下の力持ち」として知る人ぞ知る人物だった。

だから、豊かな人脈を誇っていたし、彼の人柄を好む人に知遇を得たことで、単なる財界の有名人とは違う韓国の逸材に出会え、それが私にとって得難い人脈の宝庫になった。申さんは社長だがプジョーの頑強性を好み、起亜の車には乗らずにプジョーかマツダを愛用し、起亜はエンジンが作れずマツダから買っており、マツダの技術力が彼の夢だと聞いた。

そこで私は米国で会った田中さんの話をしたら、とても喜んでくれたが、その話は『ジャパン・レボリューション』に次のように書いており、情報としては実に興味深いものだ。だが、この本は情報の宝庫だのに、出版社は税金対策で在庫を断裁処分して、読まれたのは僅か数100部だったから、日本の読者の目には触れずに終わり、産業界の没落の予防に貢献できなかった。

「・・・日本人は資本金や売上高の大きさを好み、企業家精神をあまり評価しない癖があるが、世界ではサイズや肩書きよりも、個性や意欲に対しより大きな評価や尊敬が払われている。私の読者の田中さんは挑戦欲が旺盛であり、精密機器の部品のネジ会社のマネジャーとして、香港やシンガポールで会社を興こしてから、アメリカに乗り込んだ経歴の持ち主だ。

ネジは工業製品の最も重要な部品であり、自動車がいくら燃費やデザインが良くても、悪路に耐えられるネジがなければ欠陥車で、日本車も1960年代はこれが弱点だった。

カリフォルニアの舗装道路なら問題ないが、オクラホマやテキサスの郡道などを走ると、韓国車は新車で半年も経っていないのに、ネジが緩んで飛び出してダウンになる。韓国車は形が中心でボルトやナットを軽視したので、現代や大宇は苦戦を強いられているし、社長にその点を厳しく忠告したのに、起亜自動車は倒産する破目に陥った。

田中さんの会社はカメラ用のネジが得意で、【3PPM(パーツ・パー・ミリオン)】をモットーに売り込み、『百万本の中に三本の不良ネジがあれば代金はタダ』というポリシーで商売を続けた。そして、東南アジアに進出した後で工場を作り、次に北米の市場に乗 り込んだ最初の相手が、ミネソタにある3M社だったのが面白い。

田中さんは3M社にネジを売り込みに行き、『お宅は3Mだがうちは3PPMだ』と切り出し、見事に商談をまとめてしまった。3M社のビデオカセットで使うネジはすべて彼の会社が供給したものであり、すでにデファクト・スタンダードを成就している。3Mが得意先になったのでヨーロッパも押さえ、BASFもフィリップスも日本製のネジで、彼の会社のネジが世界を席捲しているが、その秘密は3PPMにあったのである。・・・」

私は五輪選手を経験したし、グルノーブル市長の五輪アタッシェをやり、この裏話を詳しく知る申さんが、オリンピック準備ならということで、三星財閥の総帥の李秉喆を紹介してくれた。彼は事業を息子に任せて、ソウル五輪の招請に熱心に取り組み、その頃の彼は一歩退いた形で、オリンピック準備問題については、サラマンチにも親しい金雲龍が取り仕切っていた。

ギラギラした商売人より隠者肌の人間を好み、奇人や変人に対し親近感を抱くせいで、私は李秉喆とは一度しか会わなかったが、それでも多くの情報を得ている。特に韓国の五輪を仕切る金雲龍弁護士は、朴正煕が君臨した時代に大統領の警護室の副室長を務め、公安関係の経歴の持ち主だから、私は強い違和感を覚え何か変だと感じた。

朴正煕は独裁者で最後は暗殺されており、部下の警護室長が射殺犯だった事実から、CIAの関与が取り沙汰され、韓国の政界は黒い霧に厚く覆われている時代だった。しかも、金雲龍がボスだったので、世界で普及していた空手を抑えて、テンコンドーがソウル大会ではダメだったが、シドニー大会からオリンピックの種目になった。

当時のアメリカでは統一教会のビジネスが、鮮魚発送と寿司屋で目覚ましい発展を遂げていたし、日本人もアメリカ人も寿司屋が日本文化の海外展開だと思い込んだのに、その主役は統一教会だった。また、朴正煕大統領の頃からテンコードー道場がKCIAの作戦基地を演じていたし、文鮮明と金雲龍の間には見えない糸の結びつきがあると予想して、私はそこに統一教会の影を見た。

それは安倍晋三の取材でコリアタウンに行き、ロスに住む在日韓国人が生き生きとして、日本人を圧倒する凄いエネルギーを感じたが現場感覚による教えであった。実際に、熱心な読者は純粋な日本人よりも、在日系が圧倒的であり、日本人は「サルでも読める」を謳っていた金儲け本やマンガを好み、私の本を読む人など余り多くなかった。

それはバブル景気で豊になった日本人が拝金主義に毒され安倍晋三のように、緊張感を失い浮かれていたのに対し、貧困や差別から逃れて移民特有のどん底生活で、半島人が藻掻いている差だった。だから、日本人はカモになっており、大手の松下やソニーも詐欺師にやられたが、そのノウハウを逆に使いまくり、統一教会は日本を舞台にして、合同結婚式や霊感商法で荒稼ぎしていた。

『ローマ帝国興亡史』でギボンは、ローマの没落とゲルマンの潜入力が富と貧困を隔てる役目をしており、それは浸透圧の差だと論じて、節度のない豊かさは腐敗と堕落の原因だと述べた。株や土地への投機で生まれた熱狂時代は、中曽根バブルを生んでいたが、この時期に誠実の心が日本人から失われ,真面目に研究する人や他人への思いやりが消え、驕りの気分が日本列島を包んでいた。

ところが、韓国側はその逆であり、在日の半島人が多い上に、人材面でも優位に立つ上に、日本料理屋は韓国系が圧倒的で、、『縮み志向の日本人』を書いた李御寧教授を始め、優れた日本学者も目立っていた。しかも、パチンコ業界を始め町の小型金融業を始め、政界やカルトの世界に半島系の進出が目立ち、その代表が統一教会や創価学会であり、偏りの歪みが著しかったのである。

フランスに関しての研究は、イギリス人が熱心であるし、英国についての研究だとイポリット・テーヌやアンドレ・モロアを持つ、フランスが卓越するが、敵対より競合関係で相手を知る努力は貴重だ。相手に対峙して観察する効果は意外なほど有効であるし、憎悪や敵対を克服して学び「敵を知り己を知る」ならば、安全の確保は確実でより安定した境地に至る。

私は故国の外で第三者と同じ目線を使い、故郷の動静を観察し同時代の証言を記録しているが、内部にはいり込まずに「離見の見」に立てば、それが歴史を書く視座になる。だから、新聞記者と違い現場に駆け付けずに、それを見るにはどこに陣取ればより良い観察ができるかを考えて、そこに立つことにしており、臨場感は薄くても奥行きがある観察をしている。

そして、『さらば暴政』の第五章には、レーガンが訪日して中曽根と日米サミットを行ったが、それを韓国から観察し『文芸春秋』の1984年1月号に、「天動説の国・日本よ !」を書いた裏話を私は披歴している。雑誌が出てから10日後の選挙で、自民党は大勝利を狙ったが過半数を取れず、中曽根が独裁者として君臨できず、暴政の出現を防げたことが故国への最大の貢献になった。

2年余りの滞米経験をして帰国した安倍晋三は、3年ほど神戸製鋼に勤め、外相の父の秘書官になり政治の世界に入ったが、外相の安倍晋太郎にとって、統一教会の支援でだけはカネ不足だった。中曽根の後継者として首相を狙うには、何十億円もの資金が必要であり、それを作るのは大変なことで、秘書役の安倍晋三もその役を果たした。

安倍晋三が父の秘書として、外相のカバン持ちから議員になった話は、本書や『ゾンビ政体解体新書』を始め『日本を食い荒らした疫病神の正体』に、じっくりと書き込んである。私は地質のプロであるから、足を使って観察するフィールド調査が得意であり、アメション的にやる特派員とは、ひと味違う取材法を活用するので、表に出ない情報に数多く出会う。

安倍晋太郎が外相になり、若手の研究者に向けて、外務省が出す資金には、「安倍奨学金」と名付けた研究費を奮発したが、このフルブライトを真似た奨学金は魅力的だった。その頃の米国の若手はこの奨学金を貰い、日本で研究してから帰国して、大学でジャパノロジストの第四世代と五世代目になったが、、『理は利よりも強し』の第五章にそれが書いてある。

ある若手の述懐であるが、「われわれ日本学者は、アベ・スカラーと呼ばれて、ムーニーの仲間に見られて肩身が狭いから、実に不愉快で仕方がない」と嘆き、彼は中国の専門家に転じてしまった。だから、1990年代になると、まともなジャパノロジストは論壇から姿を消し、それに代わりジャパン・ハンド、ネオコンとして現れ、松下政経塾出身の議員や日本会議の仲間に属す、靖国カルトと結託し始めていた。

これを見て分かるが、自民党が統一教会に浸食されたことは、この段階で知られていたが日本人はそれに気づかず、カルトに取り込まれた安倍晋太郎を外相にしていた。これは愚鈍の見本であるが、元首相の銃殺のお陰で統一教会が注目を集め、その悪辣な野望が露見し自民党が狂い果て、餓鬼道の巣窟として腐った姿を露呈したのである。

安倍晋太郎は首相にはなれず、中曽根裁定で外相への就任で終わり、税金で安倍奨学金をばら撒きムーニーの手先と疑われ、米国の若手の学者が委縮する原因を作った。しかも、息子の安倍晋三はMoonie信者に殺され、自民党をカルト集団の巣窟に変貌して、ネオナチ化した日本の現状が、危険だと全世界に教えたのである。

安倍晋太郎外相の晩年は、世界史的な事件が続発したが、1989年の春には天安門事件が起き、秋にはベルリンの壁が崩壊し、ワルシャワ条約機構が解体し、マルタ会談により冷戦が終結した。1990年夏に石油の争奪戦で、イラク軍がクウェートを占領し。五か月後に湾岸戦争が起き、エリツィンが大統領に就任し、ソビエト体制が終焉を迎えたのである。

1990年代は世紀末を体現して、巨視的には大地殻変動で文明が転換し、新文明が生まれるための陣痛期だが、変動は地殻の深部で進み、現象はネオコン発疹の形で現れた。だから、表層での発疹の背後に潜む、「死に至る病」に由来する、破断界の到来に至るには、三十年近い潜伏期があり、2020年の疫病蔓延までは、それに気づく人は少なかった。

だから、情報革命の本格化と重なった、冷戦構造解体以後の30年間は、世紀末症候群の痙攣に属すもので、クリントンからブッシュに至る、異例の大統領の登場がには病理学的意味がある。米国においてはネオコンで、ロシア圏ではオルガリヒとして、歴史を動かす仕掛人が暗躍するが、それに触れるのはタブーであり、警戒して誰も近づかない領域に、歴史の謎を解く鍵が潜んでいる。

(藤原肇著『安倍晋三の射殺と三代の腐れ縁』の第一部より転載 )

 

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藤原肇 藤原肇

フリーランス・ジャーナリスト。『皇室の秘密を食い荒らしたゾンビ政体』『日本に巣食う疫病神たちの正体』など著書多数。海外を舞台に活躍する。

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